翻訳者のライフスタイル研究(3)―― フリーランス翻訳者・西岡さん

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大阪から急行に乗って1時間、和歌山県橋本市の郊外に、西岡まゆみさんの自宅兼オフィスがある。現在は、ご両親、姉弟で4人暮らし。翻訳のキャリアが12年を超えるベテラン翻訳者の西岡さんは、日本翻訳者協会(JAT、「ジャット」と発音)のメンバーとしても知られている。紀伊清水の駅で筆者を出迎えてくださった西岡さん

西岡さんといえばネット・コミュニティである。西岡さんの本名は知らなくても、明晰で輝きのある彼女の投稿文をメーリングリストや掲示板で目にしたことのある人は多いだろう。ある著名翻訳家は西岡さんを「スター」と評し、ネイティブと対等に渡り合う英語の使い手として絶賛した。

■ 学生時代

児童文学者の灰谷健次郎氏の講演を聴いて感銘を受けたのがきっかけで、教育学に興味を持つようになる。教育学を学べば自分の成長過程を客観的に分析できるようになるかもしれない、と思ったという。これが進学先を選ぶときの大きな決め手にもなった。

高校卒業後はいったん駿台予備校に入学し、京都で下宿生活を始めた。初めて親元を離れたこともあって、浪人生活ながら、ディスコに通ったりして楽しんでいたという。予備校では、表三郎氏の講義に強い影響を受ける。

「英語の講座なのに、これからの若い人はドイツ語やフランス語もできないといけない、とおっしゃるんです」

広島大学教育学部教育学科に進学。しかし、教員養成に伝統のあるこの大学で、同級生には羽目をはずさない、まじめな人が多く、自分が「浮いている」と感じることも度々あった。周囲に影響され国語教員免許の取得に必要な単位を取り始めるものの、結局途中でやめてしまう。

「教員資格を取らずに卒業したのは学科の中で私だけでした」マシンに向かう西岡さん、仕事ですか、メールチェックですか?

在学中で特に印象に残っているのは、今井康雄氏(現東京大学教育学部助教授)の指導でドイツ教育哲学の本を翻訳する講座だったという。
哲学論はともかく、翻訳のできの良さを教官に度々誉めてもらったのが嬉しかった。

「この授業が翻訳との出会いだったかもしれません」

また、大学と掛け持ちで日仏学院にも通ってフランス語4級を取得した。優秀な成績で4年間の学生生活を終える。

■ ユーミンが聞こえない

大学卒業後は関西の大手流通企業に就職する。男女雇用機会均等法が施行されたばかりの頃である。女性にも平等に活躍の機会が与えられる会社を選び、人並みに上を目指してがんばるつもりだった。ところが、入社まもないある日の朝、目覚まし代わりにかかるユーミンの歌声がはっきり聞こえない。最初は機械がおかしいのだろうと思ったが 、しばらくして問題があるのは自分の耳の方だということに気がついた。病院で突発性難聴と診断され、入院することになる。

当時まだ20代前半だった西岡さんにとって、一時的にしろ耳が不自由になったのは恐ろしい体験だったという。立派な構えの日本家屋。暖かい日差しが差し込む2階が仕事部屋

「障害を抱えて生きることになる可能性もあったわけですが、語学の勉強が好きな私にとっては、それよりもリスニングができなくなることがまず頭に浮かんでショックでした」

しばらく入院生活を余儀なくされたため、会社を退職し、退院後も実家に戻って静養につとめた。

■ ビジネスの世界は英語だ

体調が戻った頃、知り合いの紹介で、貿易の仕事を手伝うことになった。ここで、初めてビジネス英語にふれる。

「英語を使う仕事を初めて経験したんです。それで必要を感じてタイピストの学校にも通いました」

ブラインドタッチを覚えるだけなら、わざわざお金を払って学校に行くこともないと筆者は思うのだが、西岡さんはこういう。

「様々なビジネス英文書やレターの書式を学んだのが、その後の翻訳者人生でプラスになりました。この学校に払った学費はそれ以上の価値があったんです」

この後、西岡さんは商社に転職する。そこでは、テレックスやファックスを駆使して輸出業務をこなす毎日だった。

「たぶん英語を使う仕事にあこがれている人が漠然と持っているイメージ通りの仕事だったと思いますよ」。それで、「ビジネスの世界は英語だ、と実感して、もう一度英語を勉強しようと思い立ったんです」

■ 優等生人生だったのに

NHKのTV番組で紹介された同時通訳者の村松氏の活躍ぶりに惹かれて、同氏が経営に参加していたサイマルアカデミーに入学する。入学当初の評価。とても信じられないが確かに下の方である

「最初にテストを受けたら、下から2番目のクラスにランク分けされました。おまけに、半年後の進級審査で落第して、同じクラスを2度やることに...。最初のクラスで仲良くなった人は全員進級したので、ちょっと悔しかったんです」

またこの当時、英検準1級を2回受験して2回とも不合格になったらしい。現在の西岡さんからは想像もできないのだが。

それでも、西岡さんの場合、英語を専門に勉強してきたわけではないので、英語ができないという事実は比較的冷静に受けとめられたという。妙なプライドが先立つこともなく、自然体で学習に取り組めたのが短期間で上達を果たした秘訣だったようだ。

当時の世相では、英文タイプができて貿易事務の経験のある人材は引く手あまたで、就職に困ることは考えられなかった。そんなわけで、なんの不安もなく勤め先の商社をやめてカナダのトロントに留学する。

「現地の英語学校では、会話よりも英文ライティングで誉めてもらえたんです」

聴力に若干のハンディがあったため、帰国後は高度なリスニング力が要求される通訳の勉強は断念し、翻訳コースに編入する。

翻訳コースに入ってからは成績が良く、講師に誉めてもらえるようになったという。講師も教え方がうまかった。この頃すでに翻訳の仕事を始めていたこともあり、翻訳コースでは成績優秀者の表彰を受けることも度々だった。優秀な成績を示す証明書、この他にも束になるくらいあった

「あとでわかったんですが、講師の野口ジュディー氏は英文ライティングの指導で関西No.1という優秀な人だったんです。いいめぐり会いがあって幸運でした」

■ 翻訳会社での修行時代

話は少し遡るが、留学先から帰国した当初、西岡さんは「英語を使う仕事につきたい」と外資系企業への就職を考えていた。しかし、関西で本社機能のある外資系というと限られていて、わずかに神戸に2社あるだけだった。通勤するには遠すぎる。そこで、試しに大阪圏内の翻訳会社3社にアプローチしてみたところ、1社だけ出来高払いの社内翻訳者として採用してくれた。

この翻訳会社の社内にはベテランの翻訳者がいて、OJTで指導を受けながら翻訳作業にあたった。「当時は、海外進出をする工場の手順書などを英訳することが多かったですね。私の訳文に先輩の朱筆が入って、それを見ながら書き直すという作業でした」
この繰り返しがなによりも勉強になったという。西岡さんの翻訳者としての基礎を固めた貴重な修業時代である。

1年ほど社内翻訳者を続けていたが、社内でやっていた仕事をそのまま在宅で引き受けるという形態でフリーランサーとして独立する。他社のトライアルに合格したのもきっかけになった。その後も、この2社との取引だけでスケジュールが順調に埋まっていった。

現在は、週末の土曜日を趣味の観劇にあてるだけで、平日と日曜日は毎日8時から23時までデスクに向かっている。土曜日の昼と夜で2本を観劇する昨年の仕事の内訳は英日翻訳が30%、日英翻訳が70%だったという。

観劇では小劇場や文楽、歌舞伎が好きなのだそうだ。週に2本のペースで年間100本以上観ていると豪語するくらいだから、相当熱心なファンなのだろう。

「観劇は仕事で疲れた心を癒してくれるセラピーのようなものです。演劇関係のサークル活動やネット・コミュニティにも参加しています。仕事がたまって観劇できないと、ストレスがたまってしまうんです」

最近はJATでの活動を通じて知り合った人から個人的に仕事の依頼を受ける機会も増えているという。ときには仕事が途切れることもあるが、1週間くらいは仕事がなくても気にならないそうだ。

昨年、京都で開催されたJAT主催第11回英日・日英翻訳国際会議(IJET-2000)では、運営委員長を務め、会議を成功に導いた。西岡さんの翻訳者半生で節目となる大きな経験だったという。

今後は、英日翻訳者としては日本に製品を輸出する海外メーカーの手助けを、また日英翻訳者としては国内研究者の業績を海外に紹介するお手伝いをしていきたい、と西岡さんは抱負を語る。

■ ネット・コミュニティ

さて、西岡さんといえばやはりネット・コミュニティである。

NIFTY-serve全盛期には、翻訳フォーラムでサブシス(運営スタッフ)をつとめたこともあるベテランネットワーカー(すでに死語?)である。電子辞書が登場する前から翻訳の仕事をしているだけあって、蔵書は豊富だ

きっかけは、翻訳雑誌で読んだ翻訳フォーラムの紹介記事だった。アクセスしてみると、意外にも雑誌に登場するような有名人が多くて、そのような人たちと交流できるのが楽しかったという。ネットの世界での有名人とも直接メールのやりとりをするようになり、次第にネットにどっぷり浸かるようになる。

黎明期の翻訳フォーラムは、NIFTY-serveの利用者がまだ一部の先進的な人に限られていたこともあって、投稿の水準が高く、一種独特のアカデミックな雰囲気があったという。インターネットが一般に普及し、掲示板への投稿を誰でも当たり前のようにするようになった現在とは、だいぶ趣が異なっていたそうだ。

「とにかくおもしろくて夢中になってしまった時期もありました。毎晩チャットで1時間くらい遊んだりしていましたから」

筆者にも覚えがあるが、やりすぎには注意しないといけない。また、女性には特有のリスクもつきまとうらしい。

「今でいうストーカーのような男性から、迷惑メールを送り続けられたこともあるんです。そんなこともあって、バーチャルなコミュニケーションだけでは相手のことがよく分からないので、実際に会ってみることが大切ですね」

インターネットが普及すると、ネット・コミュニティの場も急速にインターネットへと移っていった。一時は事実上の独占メディアだった NIFTYの各種フォーラムも軒並み廃れてしまう。西岡さんも現在ではML(メーリング・リスト)が活動の中心となっている。

西岡さんにとって、ネット・コミュニティは仲間とのふれあいがあり、絆(きずな)を感じられる大切な精神生活の一部なのだ。仕事中も1時間おきくらいにメールチェックを欠かさないという。

「回線をつないでネットにアクセスすると、そこには仲間がいるんです。気が向いたらじゃれに行きます...」

この頃は投稿文を眺めているだけで先の展開が読めるという。

「このトピックなら、きっとあの人がこういう論理でレスを付けるだろうな。それに、あの人も例の思考パターンでからんできて...。もし、あの人がかみついてくるとバトルになるかも...。でも、結局、常識派のあの人が仲裁に入って....」

忙しくて自分が投稿できないときには、こうしてイメージを膨らませるのもまた楽しみの一つなのだそうだ。細かい心遣いがうれしい。とっても優しい人なのだ

■ 東京進出

実は西岡さん、今春東京に転居する予定である。いつまでも両親と同居しているわけにもいかないし、独立したい。新しく住まいを探して、やっていくなら東京がいいと考えたそうだ。

「初めて暮らす土地には不安もありますが、首都圏にはJATの仲間や学生時代からの友人、観劇仲間が大勢いるので、新しい知識と経験が得られるんじゃないですか」と期待に胸を膨らませている

というわけで、新生活を始める西岡さんにエールを送りたい。

(文・撮影 加藤隆太郎)

※この記事のオリジナルは、日外アソシエーツ発行の読んで得する翻訳情報メールマガジン「トランレーダードットネット」に掲載されたものです。お問い合わせはこちらまで

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