翻訳者のライフスタイル研究(4)― 飯能の快人、IT書籍翻訳者・小舘光正さん

天才型翻訳者

飯能駅周辺は近代都市である。 東京池袋から特急に乗って40分、埼玉県飯能市の郊外に、小舘光正さんの自宅兼仕事場がある。現在の家族構成は奥様、一男一女の4人。加えて、犬、猫、蛇、カメレオン、蛙、熱帯魚といった生き物と同居している。

小舘さんは、IT関係の書籍翻訳で著名な翻訳家である。ロングセラーの翻訳指南書『ビジネス翻訳50のヒント』の著者としても知られている。現在の取引先は10社あまり。多忙なため、依頼のすべてを受けられるわけではなく、断ってしまうことの多い日々だという。

事前の打ち合わせでは、駅から離れた自宅周辺はサービス圏外になるためケータイが使えないと聞いていた。人口カバー率99.9%とかいうケータイ会社のうたい文句が頭に浮かんだ筆者は、日本国で残りの0.1%に分類されるすごいところ(圏外にお住まいの読者、失礼)を想像していた。

それが、池袋駅で電車に乗って弁当を広げ、そろそろ旅行気分がでてきたな、というところで着いてしまったのである。意外にも都心へのアクセスは良さそうだ。これなら都内での急な打ち合わせにも1時間くらいで駆けつけられる。

小舘さんはお忙しい中、わざわざ車で筆者を出迎えてくださった。6年前に購入した一戸建ての自宅は駅から車で15分くらいだという。車窓から眺める景色には、バーベキューパーティをするのにもってこいの河原があり、四方を山に囲まれ、緑があふれている。そこには都心から40分とは思えない自然があった。夏には観光客でにぎわうという。

朝食のしたくで始まる一日

小舘さんの1日は朝食のしたくをすることから始まる。凝り性だという小舘さんは料理の腕にも相当自信があるらしい。朝食がすむと、長男玲乃(れの)くんのお弁当をつくり、幼稚園まで送っていく。お弁当を作る小舘さん。料理の腕にも自信あり。

ゴミの日にはゴミを出し、その他家事全般をこなすと11時頃になる。それから、ようやく仕事を始める。昼食をとると眠くなるので、仕事中に軽く間食をする程度ですませているという。夕方5時まで働き、玲乃くんを迎えに行く。そのまま買い物に出かけることもある。

夕食のしたくをして子供たちに食べさせると、テレビがアニメ放映の時間になるので、子供の相手はテレビに任せられる。夕食後の2、3時間は集中して仕事ができる貴重な時間だという。

「できれば主夫になりたいくらい、家事も育児も好きなんです」

ここまで読んだ読者は奥様はなにをしているの?と思うことだろう。実は、奥様はキャリアのある人で、非常に多忙であるため、家事にあてられる時間が限られている。そもそも家事が好きな方でもないらしい。現在、奥様は長女の光姫ちゃんが幼いため育児休暇中で家にいることが多いが、奥様が勤めにでているときは、6時半に起床して奥様を駅まで送っていくことから小舘さんの1日が始まる。


最近流行の性別性格診断を適用すると、地図の読み方や空間認識の能力など多くの項目で、小舘さんが女性型、奥様は男性型とでるらしい。なるほど、うまくバランスがとれているわけだ。

大人の中で育ち早熟な少年時代

小舘さんの生家は横浜で眼鏡店を営む商家で、近所は商店街だった。このような環境では子供同士で遊ぶ機会が少なく、大人の中で育ったため早熟だったという。

小学校時代はまったく勉強しない子供だった。本も読まない。そもそも机に向かった覚えがないらしい。

4年生のときにクラッシックギターを習い始めたことがきっかけで、クラッシック音楽が好きになる。5年生でラヴェルのファンになったというから、おませな少年だったのだろう。犬と戯れる小舘さん

中高一貫教育の関東学院に進学。初めての英語のクラスで担当になった英語の先生が偶然自分の知り合いだった。この先生の授業がおもしろくて、英語が好きになる。授業中以外は勉強を全くしなかったため、数学や社会科がさほどふるわなかったのとは対照的に、英語だけは中学3年間で95点以下をとったことがなかったという。

音楽が好きな小舘少年は、クラブ活動にブラスバンドを選んだ。中2のときには、招かれて欧州へ演奏旅行にいったほど、ハイレベルなバンドだったという。

ある日、クラブ活動の知り合いの家にいったとき、初めてマーチングバンド(DCI, Drum Corps International)のことを知った。日本ではほとんど知られていないのだが、米国ではDCIが競技として確立しているというのだ。小舘少年は「これだ」と直感し、マーチングバンドの世界にのめり込んでいく。よれよれになった、写真の青焼きに見入り、5回はダビングを重ねただろうというテープで演奏を繰り返し聴いた。

いつのまにか授業中に英文の手紙を書いて米国の友人と文通したり、メールオーダーを書いて、レコードを個人で輸入したりするまでになっていたという。

米国DCI観戦旅行

高校2年のときに、友人と2人で米国に渡り、ロス、シカゴ、アラバマとDCIの大会を観て回った。10代の高校生が初めて自分たちだけで経験する海外旅行である。大冒険にも等しい。

「会話は全くだめだったのですが、筆談では完璧に話が通じたんです」

アラバマの地区予選では日本からやって来た若者が珍しがられ、全く無名の高校生がなぜかVIP扱いを受ける。2人を紹介するアナウンスがスタジアムに流れると、1万人の大観衆がスタンディング・オベーションで歓迎してくれたという。これにはさすがの小舘少年も身震いするほどの感激を味わった。この瞬間に将来の進路がおおかた決まったらしい。

帰国後は、米国の大学に留学してDCIの勉強をすることが明確な目標になる。文通を通して米国に友人を作り、必要な情報を収集していった。留学に必要な手続きを自分でやるめどもついた。

当然のことながら、バンドの勉強をするために留学したいという小舘さんの考えに、父親は猛反対だった。食べていけるかどうか分からないようなことを学ぶために留学はさせられないというわけだ。だが、固い決意で夢を語る息子に、父親の方が次第に折れていった。6年前に購入した自宅の前でお子さん2人と小舘さん

心身のバランスを崩し、自暴自棄に

ところが、高校卒業間近にして強迫神経症というやっかいな病気にかかってしまう。週3回の通院治療を余儀なくされ、留学はおろか通常の社会生活も困難という健康状態になったのだ。

ショックのあまり、自暴自棄になり、それまでに収集したDCI関係のレコードや写真、資料、手紙をすべて捨ててしまったという。治療生活が長引く中で、外部との接触を断ち、引きこもりがちになっていく。そのうちに友人もいなくなってしまったという。小舘さんの人生で最もつらい空白の時期である。完治までに2年を要した。

人生の師

20歳の秋頃、社会復帰のためのリハビリをかねて、もう一度英語の勉強をしてみようと思いついた。ECC渋谷校で全日制の1年コースに入学する。

ECCに入学して英語の勉強を始めたのだが、ここで人生の師ともいえる人物との運命的な出会いがある。ECCの風間氏は一風変わった講師だった。「鏡は左右が逆に映るのになぜ上下はそのままなのか」という具合に、答えに窮するような質問を投げかける。そのため、毛嫌いする同級生も少なくなかったらしい。筆者にも禅問答か東洋哲学の謎かけにしか思えなかったのだが、小舘さんはいう。

「風間先生は考えることの大切さを教えたかったのだ思います」

ECCは英語の学校であるため、授業の大半は知識の習得に力点が置かれている。そのため、生徒の側も暗記することに追われてしまう。下手をすると、ものごとに対して疑問を持たず、盲目的に受け入れる癖がついてしまいかねない。風間先生は、英語学校に学ぶ学生が社会に出てから単なる英語屋さんで終わらないように、洞察力や論理的な思考力を植え付けたかったのではないだろうか。

のちに後進の指導に携わるようになる小舘さんにとって、このときの風間先生の教えが、独自の教育哲学の礎(いしずえ)となる。仕事のアシスタントはカメレオン?

タイピストのアルバイト

そろそろ卒業という頃、社会勉強のつもりで、学校の掲示板で見つけたタイピストの求人に応募してみた。学校と同じ渋谷にある会社なら通うのに便利だろう、というくらいの理由だったという。そこが、たまたま翻訳会社で、英文タイプの他に翻訳文のチェックをするようになる。当初は翻訳の仕事をしようなどとは全く考えていなかったらしい。単なるつなぎのアルバイトだった。

ある日、版下の段階で翻訳原稿をチェックしていると、1パラグラフそっくり訳抜けしているのに気がついた。そのままでは作業を進行できない。

当時の翻訳者というと、ごく一部の特権階級で"先生"扱いを受けている人が多かったという。礼を尽くして足りない部分の翻訳をお願いしなければならない。しかも、電子メールなどは存在しておらず、紙の翻訳原稿を受け取っていた時代である。アルバイトの小舘さんが"先生"の自宅にまで出向き、頭を下げて訳文を受け取ってくることになる。とてもそんな時間はなかった。

これくらいの量なら、なんとなく自分でも訳せそうな気がしたので、試しにやってみた。もちろん、そのまま版下にまわしてしまうわけにはいかない。社長に事情を話して自分の訳文で間に合わせていいか判断をあおいだ。すると、

「これなら、元の人の訳よりもいいじゃない。このまま使いましょう」となった。

ここまではよくある話だ。時間がないため、その場にいる人の仕事で間に合わせることは珍しくない。続いて、

「あなた、翻訳の素質があるわよ、やってみない」というのだ。

この一言が小舘さんの翻訳者人生の始まりだった。実は、社長自身も気むずかしい"先生方"の顔色を伺いながら翻訳を外注するやり方に疑問を持ち始め、新しい時代のニーズに合う翻訳者を自前で養成できないかと模索していたところだったのだ。


ある日、出社すると、当時としてはまだ珍しい日本語ワープロ専用機がおいてあった。それを使って小舘さんに翻訳をしろというのである。こうしてアルバイトの小舘さんは、自らの意志とは無関係に雑用係から見習い翻訳者へと昇格した。「小舘翻訳事務所」という看板が読める

しばらくは雑多な分野の英日・日英翻訳を引き受けなければならなかったので、クレームを食らうこともあったという。そのたびに「クビにするわよ」というのが口癖の社長に励まされつつ、小舘さんは翻訳修行を続けた。どんな仕事でも、それなりに、そつなくこなしていたという。

「会社に行くと周りが大人でおもしろかったんですね」。労働時間が自己申告制という自由な社風にも魅力を感じ、ECC卒業後も、しばらくこの会社でやっかいになることにした。

この会社の社長は、小舘さんいわく「度胸のある人」で大胆な英断を下す慧眼の持ち主なのだという。
そのころ、外資系大手のコンピュータメーカーが日本のパソコン市場に進出し、大型翻訳プロジェクトの入札が行われた。大小10社あまりが名乗りをあげたという。ここで社長の英断が下った。ベテランの先生方を差し置き、見習い翻訳者の小舘さんが会社を代表して入札トライアルに挑戦することになったのだ。

とはいうものの、翻訳の実務経験に乏しく、コンピュータの知識もゼロに等しい。さすがの小舘さんもこのときばかりは社長の決断が無謀に思えたという。

「なにしろ、コンピュータの実物を見たこともなかったんです」デスクトップ

だが、せっかくの大抜擢を自信がないからといって断ってしまうのもなさけない。半ばやけくそで引き受けることにした。いったん取りかかると、凝り性の性格が手伝って、わからないこところは徹底的に調べあげる。

すると「トライアル課題文にしくまれたトラップが見えてきたんです」

トラップというのは、たいていの人が見落としてしまう、トライアルの核心ともいえる箇所である。そこの出来次第で合否が決まるといっても過言ではない。

「さらさらっとやったのが、不思議なことに通ってしまったんですね」

みごと、小舘さんの会社が受注を勝ち取った。その後、この会社はコンピュータ関連専門の翻訳会社として発展していくことになる。同時に、見習い翻訳者制度を確立し、現在主流になりつつある翻訳の内製化を業界でいち早く実現する。

見習い修行を始めて半年後、自分専用のワープロを貸与してもらえることになり、専属翻訳者として在宅勤務で働くことになった。

コンピュータについても独学で必要な知識を習得していったという。PC-98に始まり、それがPC/AT互換機になり、Windows 3.xが普及した頃には「DOSでやる方が好きでしたね」というくらいだから、かなりのマニアの域に達していたのだろう。

だが、「翻訳の仕事をしたいと思ったことはないんです」というように、当時は、まだ大学に進学するための資金稼ぎで翻訳のアルバイトをしているという感覚だったという。

それが3、4年とキャリアを積むうちに、指名で仕事を受けるようになり、翻訳者としての自覚が芽生えてきた。翻訳の仕事をやってきて、高卒という学歴でハンディを感じることは全くなかったという。次第に大学進学にこだわらなくなり、翻訳のプロとしてやっていく自信を深めた小舘さんは、25歳で親元を離れて独立した。

20代で一戸建てを購入

実績を重ねるにつれて、翻訳者としての地位があがっていく。納品でも会社の若い人が小舘さんの自宅まで取りに来てくれるようになった。そのころ、パソコン通信が普及し始め、電子メールでのやりとりが可能になった。

当時の年収は軽く700万円をクリアしていたという。思い切って、千葉県君津市に一戸建てを購入した。子供の頃からのあこがれだった動物を飼う生活をしたかったのも一戸建てにこだわった理由だという。都内での打ち合わせの必要が生じた場合も考慮して、半日で行って帰ってこられる地域を選んだ。

ところが「結局、1年のうちで東京に行く必要があったのは1回くらいでした。その用件というのも忘年会だったんです(笑)」仕事部屋のデスク。

数年間は、最初の会社の専属翻訳者として平穏無事な生活を送る。その後、茨城県の土浦に移り住んだ。今度は、東京まで2時間以内で行けて犬が飼えるところ、という条件で選んだという。

教えることによって翻訳論を確立

この頃から後進の指導にも携わることになる。

小舘さんの場合、たまたま訳したものが社長の目に留まって、成り行きで翻訳者になったという経緯もあり、体系的に翻訳の勉強をしたことはない。現場でのOJTを通して、いわば体で覚えた翻訳だった。それが、教える立場になることで、翻訳のテクニックを理論的に言葉にして人に伝えるという必要が生じた。この経験で自分の知識が整理され、自分なりの翻訳論を体系化して確立していくきっかけになったという。

女房がプロデューサー

そうこうするうちに、ある編集者から連絡が入る。バベルプレスの月刊『翻訳の世界』といえば、当時、翻訳関係者の間でひとつのブランドとして認知されていて、憧れのまとだった。その編集Aこと、坂本久恵氏からエッセイ執筆の依頼を受けたのである。

「翻訳の世界に声をかけてもらったのが嬉しくて」一も二もなく引き受けたという。

その後もエッセイやコラムを時々寄稿していたのだが、いずれも評判がよく、今度はビジネス翻訳の指南書を出してみないかという話が舞い込んだ。

「いいですね。やりましょう」と軽く返事をしたものの、日々の仕事に流されるまま1年近く具体的な行動を起こさずにいた。そのため、いったんは立ち消えになりかかる。

そんなとき、「女房が、またとないチャンスなのだからやりなさい、と尻をたたいてくれたんです」

話は少し遡るが、32歳で奥様と一緒になっていた。IT翻訳書が多い。

「それまで、どちらかというおっとりしたタイプの女性が好みだったんですが、バイタリティあふれる女房に出逢って、新鮮さを感じました」

小舘さんが奥様を語るとき「なにしろ、すごい人なんですよ」というフレーズを盛んに繰り返す。出不精でめんどくさがり屋の小舘さんとは正反対で、一度口に出したことは必ず実行する行動力の持ち主なのだという。

小舘さんにとって奥様は「小舘光正のプロデューサー」という役割を果たしてくれる貴重なパートナーであるという。そのプロデューサーの強力な後押しで、小舘さん初の書き下ろしが刊行にこぎ着けた。ロングセラーとなる『ビジネス翻訳50のヒント』である。

この『ビジネス翻訳50のヒント』がきっかけで、他の出版社からも原稿執筆の依頼を受けるようになり、ものを書くという要素が小舘さんの仕事に加わった。

近い将来、小館さんは、あるオンライン制大学院で"教授"に就任することになるかもしれないという。そうなると、なんと大学を飛び越して米国の翻訳修士号が取得できるのだそうだ。

産業翻訳者はとび職人

「作家を建築家だとすると、文芸翻訳家が大工、産業翻訳者はとび職のようなものですよ」と小舘さんはいう。

建築家は芸術性を賞賛され、大工は腕の良さを世間に認めてもらえる。ところが、とび職となるとその仕事のできばえが一般には見えにくい。

だからこそ「いい仕事をして自分がどこまで満足できるか。それが大切なんです」

次の仕事?

小舘ファミリー。窓越しに山が見える。
「飯能に住んで6年になりますが、冬が寒いことをのぞけば満足しています」
それでも「次はどこか駅前のマンションに住んでみたいですね」と小舘さんはいう。

住み替えというのも、通勤の制約を受けないフリーの翻訳者だからできる自由なライフスタイルの一つにあげられるだろう。もちろん、収入の多い一流の翻訳者だけができる贅沢なのだが...。

「そろそろ翻訳にも飽きてきたので、次は作家にでもなってみたいですね」

それが夢なのかときくと、ただの仕事替えだと言ってのけるのである。

(文・撮影 加藤隆太郎)

※この記事のオリジナルは、日外アソシエーツ発行の読んで得する翻訳情報メールマガジン『トランレーダードットネット』に掲載されたものです。お問い合わせはこちらまで

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