当時の翻訳者というと、ごく一部の特権階級で"先生"扱いを受けている人が多かったという。礼を尽くして足りない部分の翻訳をお願いしなければならない。しかも、電子メールなどは存在しておらず、紙の翻訳原稿を受け取っていた時代である。アルバイトの小舘さんが"先生"の自宅にまで出向き、頭を下げて訳文を受け取ってくることになる。とてもそんな時間はなかった。
これくらいの量なら、なんとなく自分でも訳せそうな気がしたので、試しにやってみた。もちろん、そのまま版下にまわしてしまうわけにはいかない。社長に事情を話して自分の訳文で間に合わせていいか判断をあおいだ。すると、
「これなら、元の人の訳よりもいいじゃない。このまま使いましょう」となった。
ここまではよくある話だ。時間がないため、その場にいる人の仕事で間に合わせることは珍しくない。続いて、
「あなた、翻訳の素質があるわよ、やってみない」というのだ。
この一言が小舘さんの翻訳者人生の始まりだった。実は、社長自身も気むずかしい"先生方"の顔色を伺いながら翻訳を外注するやり方に疑問を持ち始め、新しい時代のニーズに合う翻訳者を自前で養成できないかと模索していたところだったのだ。
ある日、出社すると、当時としてはまだ珍しい日本語ワープロ専用機がおいてあった。それを使って小舘さんに翻訳をしろというのである。こうしてアルバイトの小舘さんは、自らの意志とは無関係に雑用係から見習い翻訳者へと昇格した。
しばらくは雑多な分野の英日・日英翻訳を引き受けなければならなかったので、クレームを食らうこともあったという。そのたびに「クビにするわよ」というのが口癖の社長に励まされつつ、小舘さんは翻訳修行を続けた。どんな仕事でも、それなりに、そつなくこなしていたという。
「会社に行くと周りが大人でおもしろかったんですね」。労働時間が自己申告制という自由な社風にも魅力を感じ、ECC卒業後も、しばらくこの会社でやっかいになることにした。
この会社の社長は、小舘さんいわく「度胸のある人」で大胆な英断を下す慧眼の持ち主なのだという。