翻訳者のライフスタイル研究(5) ― ゲスト編 ― 子連れSOHO主婦
ビジュアル系翻訳者
桜の花が散って新緑がまぶしくなる4月下旬、名古屋市辺境の筆者自宅に翻訳者の寺島美智子(仮名)さんをお迎えした。この取材ではいつも筆者が翻訳者の仕事場まで出かけていくのだが、今回は逆である。2児の母である寺島さんはご子息をベビーカーに乗せてお出でになった。昨年の転居以来、自宅に翻訳者仲間をお招きするのは始めてのことである。筆者は妙にわくわくしてしまった。
寺島さんは、電通社員の目にとまってNTTの広告でSMAPの中居君と競演したこともある、ユニークな経歴の翻訳者である。
夫は転勤族。家事・育児いっさいをこなす日々
宮城県仙台市は、寺島さんが結婚後7回目の転居先である。大学で教官をしているご主人の都合で引っ越すことが多い。ご主人の現在の勤務先は東北大学。研究活動に多忙なご主人は家庭に関する雑務はいっさいやらず、週末に長男の相手をしてくれる程度だという。
というわけで、家事と育児のいっさいを寺島さんが担っているのだが、立派に翻訳業と両立させている。現在の取引先は、翻訳会社が5社あまり、直接取引のクライアントが1社あるという。最近では初めての訳書としてオライリージャパンから『MySQL
& mSQL』(共訳)が出ている。
尾崎豊マニアの文学少女
「高校時代は尾崎豊にはまって」大変だったという。
「きっと意味なんかは理解していなかったんでしょうが、難しそうな本を読みあさったりして、太宰治とか、トルストイとか」
この年代の少年少女にはよくあることで、難しい本を読んでいるという自分の姿に満足していたらしい。また、ときどきエッセイのようなものを書いたりしていた。あまり勉強しなかったのだが、国語の成績は悪くなかったという。
「いろいろと余計なことを考えてしまって、受験に向かって素直に邁進できなかったんです」
英語も得意とは言えなかった。
「なにしろ、"Martin Luther King"を"王様牧師"と訳していたくらいですから(笑)」
なんとなく「お嬢様系の女子大」に入学したのだが、家政学部というのが自分に合わなくて、また悩んでしまう。ご主人と出逢うまでは漠然とアナウンサーになりたいと考えていたという。
JAZZマン志望の万年学生との出逢い ― 渡米
名古屋大学へ遊びに行こうとして道をたずねた相手が現在のご主人である。当時名大工学部在学中のご主人は、本気でジャズミュージシャンを目指していて、大学での学業を中断してまで音楽活動に熱中していたという。だが、結局チャンスに恵まれず、学業に専念することになった。
年齢が離れていたため、寺島さんにとっては「おじさん」だったのだが、そのおじさんと、寺島さんが大学4年の時に学生結婚をする。
ご主人は学部を6年かかって卒業し、大学院修士課程在学中に教授から米国留学を勧められた。米国留学が決まってから、寺島さんは必要に迫られて英会話を真剣に学び始めた。本格的に英語を学習したのは、このときが最初だったという。
渡米後、寺島さん自身もミシガン州立イースタンミシガン大学でテクニカルコミュニケーションを学ぶ。ご主人は、国費留学といっても1年目に生活費として100万円が支給されるだけである。自分たちで生計を立てて行かなければならない。寺島さんも自分の学費は自分で稼ぐべく、翻訳を扱っている会社で、翻訳アシスタントや電話受付業務等をしていたという。
そうこうするうちにWindows 95ブームを迎え、世界規模でインターネットが急速に普及し始める。ブラウザといえばモザイクしかなかった時代に、いち早くhtmlの基本的なスキルも習得していた。
「あの頃は、中途半端な英語と日本語がチャンポンになっていた状態でした」
米国生活3年目に、ご主人が東京大学で助手の仕事を得たため、帰国することになる。
社内翻訳者兼キャンペーンガール?
帰国後、寺島さん自身は、ハードディスクベンダーの日本法人でマニュアルの制作や翻訳に携わることになった。採用にあたっては、米国の大学を卒業していたのが評価されたらしい。また、当時はまだインターネットの黎明期であり、htmlが書けるというだけで「売り」になったという。ホームページの制作も担当することになった。Quark
XPressを使ってDTP作業を行ったり、イベントの会場でキャンペーンガールを務めたこともあるという。マイクを持って商品説明をするだけのことなのだが、アナウンサーに成りたかったという学生時代の夢が思わぬ形で実現して楽しかったそうだ。
当時は、急増するIT翻訳需要に対して翻訳者の供給が追いつかず、圧倒的な売り手市場だった。翻訳単価についても、経験を積んだ翻訳者ならワード20円が珍しくなかった時代である。独立してフリーでやっていくのは難しくないように思えた。その頃、長男が誕生したため、外へ働きに出られなくなっていたのだ。
フリーランサーとしてスタートしたが...
あるエージェントのトライアルに合格し、フリーランサーとしてスタートした。徐々に実績を積み重ねて、育児と仕事をなんとか両立していくメドが立ったころ、大型プロジェクトを担当することになった。一定の分量が仕上がり次第、直接クライアントに分納していくワークフローである。
仕事中にも子供が部屋の中を動き回る。育児に慣れてきたとはいえ、予測のできない子供の動きを完全に意識から取り払ってしまうことはできない。必然的に、仕事への集中力が低下し、能率があがらないのだ。だが、それは仕方のないことだとあきらめていた。とにかく目の前の仕事をスケジュール通りに片づけていかなければならない。週1万ワードというノルマは標準的な作業量だから納期遅れは許されない。
最初のファイルを納品した段階で、クライアントからあからさまなクレームがついた。翻訳の出来があまりにも悪いので、担当の翻訳者を変えてくれというのである。エージェントはもクライアントの意向には逆らえない。寺島さんは、プロジェクトの半ばで降ろされてしまった。
このように露骨なクレームが翻訳者にフィードバックされることはまれだ。クライアントにすれば、期待していた翻訳品質とあまりにかけ離れていたため、致し方なく担当翻訳者の交代を要求したのだろう。
「それはもう傷つきました...」しばらくは失意のどん底だったという。
冷静になって考えてみると、忙しさにかまけて事前の下調べを怠っていたのが悔やまれる。ベテランの翻訳者でも集中力が欠けた状態で仕事をすれば、翻訳品質は必ず低下する。IT知識が十分とはいえない未熟な翻訳者であれば、なおさらである。その後、このエージェントからの連絡は途絶えてしまった...。切られたのである。
この失敗は強烈な教訓となった。以後は、「あまり欲張らずに無理なときは無理と言う」ように心がけているという。
子供も仕事も一手に抱え込んでしまっては身動きがとれない。
「忙しいときは、できるだけ息子たちを保育園に預けることにしました」
失敗は許されない?フリーランスの厳しい現実
実は、筆者はそのエージェントの経営者と食事をする機会があり、その中で話題がこの一件に及んだ。寺島さんはその後の活躍でも証明されているとおり決して腕の悪い翻訳者ではない。たまたま条件が悪くて実力を発揮できなかっただけなのだが、エージェント側としては一度でもクレームがついた翻訳者は使いにくいという。翻訳志望者はいくらでも見つかるので、×印がついた人よりも新しい人の可能性にかけてみたくなるものらしい。
セルフプロデュース――したたかな子連れSOHO主婦
寺島さんといえば、売り込み上手な人というイメージが筆者にはある。打ち合わせで上京したときなどには、取引先との顔つなぎはもちろんのこと、スケジュールの合間をぬって有力翻訳者をたずね歩いて情報交換をすることもあるらしい。したたかな子連れSOHO主婦なのだ。
自分も翻訳者である筆者は、以前から寺島さんのノウハウに興味があったのでこの機会に秘訣をきいてみた。
「ホームページを作って、あとはあちこちのMLに顔を出すぐらいです。営業というより、セルフプロデュースでしょうか」
寺島さんのホームページは、翻訳者個人のサイトとしては非常に洗練されていて、しかも必要な情報だけが英日2カ国語でビジネスライクに整理されている。MLに投稿するときはシグニチャ(文末の署名部分)にURLを記載しているというから、寺島さんに興味を持った人はおそらくホームページを見に来るだろう。
そのホームページを編集者が見て月刊「SOHOコンピューティング」誌の取材となり、その記事を電通社員が目にして、SMAP中居君との広告競演が実現した。
初めての訳書の話をもらったのも、
1)MySQLを勉強してみようと思ってMLに参加した
2)いくつか質問をした
3)監訳者さんが質問に答えてくれた。と同時にシグニチャからホームページを見たらしいことを言ってくれた
4)MySQLを訳す話がでたときに、監訳者さんがオライリー・ジャパンに紹介してくれた
という経緯だったそうだ。
翻訳者が営業広告でWebサイトを立ち上げるのは今や常識となったが、あらためて効果の高さを確認した。営業力も実力のうちである。寺島さんは、独自ドメインを取得してサイトを運営している。今後はフリーランス翻訳者が自分の名前でドメインを取得するのが流行しそうな気がする。
子育ては大変だ!
今回は、お子さまも同席での取材となった。
ハイハイを始めた頃の乳幼児の世話は並大抵ではない。利発なご子息は人一倍好奇心が強いらしく、筆者宅のリビングで活発に動き回り、あらゆるものをひっくり返して口に入れたり、涎(よだれ)でおしるしを付けたりする。
それに、筆者宅は家具を選ぶときに子供のことを全く考慮していないので、小さな子供にとって危険がいっぱいの環境になっている。
放置しておくと何をしだすかわからないし、怪我でもされたら一大事だ。気になって取材にならないので、筆者がご子息を抱いていることにした。しばらくすると、なんだか異臭がする。今度は筆者の膝の上でうん○をしたのだ。筆者はオムツの取り替えを手伝う羽目になった。
こんな調子で結局、取材は中断してしまった。想像していたよりも、育児と仕事の両立は難しそうだ。これから子供を持つ予定の筆者も覚悟を新たにした。
ちょうどいい生き方
さて、ご主人の転勤に合わせて住所や仕事が変わる寺島さんだが、なんだかご主人が人生の主役で、寺島さんは脇役であるかのような印象を受ける。失礼を承知でそのあたりをたずねてみた。
「そうですね。私は脇役だと思います。ワーキングマザーの母を見て育ったので、バリキャリ(訳注:
バリバリのキャリアウーマン)にあこがれもさほどありません」
女性の社会進出への意欲を萎えさせてしまう日本の社会構造が悪いのだろうか。ご主人は、いずれ大学教授という地位を手に入れるだろう。
「竹内まりや的生き方がちょうどいいです」と寺島さんは理想を語る。
竹内まりや的な...を筆者は具体的にイメージできなかった。寺島さんのエッセイには次のように書いてある。
-------(寺島さんのエッセイより引用)------
仕事もしたいけど営業とかめんどくさいことはしたくなくて、子供以外の世界も欲しいんだけど子供と離れっぱなしもイヤだし。在宅ワーク(作曲)ならバランスもとれていいかもってとこかな。だけど花まるレギュラー陣や雛形あきこみたいに、育休もそこそこに現役復活してる人たちはちゃんときらきら美しいまま。生の竹内まりやって見たことないぞ。家庭にどっぷり浸かりすぎちゃって編集無しの映像じゃ勝負できなくなってんのかしら。面倒がらずにときどきは周辺活動もしたほうがいいのにね。....
-------(寺島さんのエッセイより引用)------
翻訳の仕事は人生の保険
寺島さんはいう。
「私にとって翻訳の仕事は保険みたいなものですね。いつでも自分の人生を選べるという...」
今後の展望についてきいてみた。
「子供が小学校高学年になるまでは、今のままだと思います。子供に相手にされなくなったら大学にでも行こうかな」
(取材・一部写真撮影 加藤隆太郎)
※この記事は、日外アソシエーツ発行の読んで得する翻訳情報メールマガジン「トランレーダードットネット」に掲載されたものです。お問い合わせはこちらまで。
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