翻訳者のライフスタイル研究 7 ― いまどきの翻訳学校の生徒  帰国子女の 高橋 美紀さん

愛知県の刈谷市(かりやし)は、大小の自動車部品メーカーが軒を連ねる製造業の町である。今回は、翻訳学校で産業翻訳の講座を受講中の高橋 美紀さんのお宅を訪ねた。高橋 さんご夫婦はそろって20代前半という最近では珍しい早婚カップルである。

高橋 さんが出産直後ということもあって、ご夫婦は高橋 さんの実家に仮住まいをしている。少し手違いがあって(と書けば、読者のみなさんには察しがつくと思うが…)、予定よりも早く結婚することになったため、結婚生活の準備が整っていなかったのが一時同居の理由だという。若い母親が子供を抱く姿は絵になる…

現在は専業主婦で(本人は主婦と呼ばれることに抵抗を感じるようだが)育児に専念している。特に仕事はしておらず、4月から週1回だけ名古屋市内の翻訳学校に通って産業翻訳の勉強をしているという。通学を始めてちょうど3ヶ月経ったところだ。

高橋 さんは、幼児期から少女時代の大半を英語圏で過ごしたという経歴を持つ、典型的な帰国子女である。

カナダとアメリカで育ち、英語が母国語に

高橋 さんが2才のときに、自動車部品メーカー勤務の父親の海外赴任が決まり、一家はカナダのトロントに移住した。物心つく前だったので、日本の記憶は全くないという。

高橋 さんは、自分が英語を習得していったプロセスをよく覚えているという。それは、小さい子供が母国語をマスターしていく過程そのものだった。初めは相手の言っていることが理解できるようになり、相手の意思が理解できても言葉を口に出して答えられない状態が続き、次第に単語単位で応答できるようになる。

すぐに英語で自然に会話ができるようになり、外では英語、家庭では日本語を不自由なく使い分けられる完全なバイリンガルの子供になった。

小学校に入学してすぐの頃、父親がロサンゼルスに転勤になった。

平日は現地の学校で、米国人と同じ教育を受け、週末だけ日本人子女のための補習校に通っていた。補習校では日本人の友達に会えるのが楽しかったという。特に、帰国後の受験を意識するようなことは全くなかった。ちなみに、日本語の読み書きはマンガで覚えたそうだ。

「ドラエモンを夢中になって読んでいました」

子供時代の高橋 さんにとって、海の向こうの日本はマンガの国だったという。

「あの頃は毎日がとても楽しかったんです。ロスの学校はとても自由で、一人一人の個性を伸ばしてくれました。はっきりと自分の意見を言うことが大切だと教わったんです。みんなそれぞれ違っているのが当たり前で、違うところを理解して受け入れるように教育されました…」

7才までロスですごす。その後父親が国内の本社に戻ることになり、家族が帰国したのは高橋 さんが小学4年の3学期のときだった。

異質な存在を受け入れない閉鎖的な日本の子供社会

すぐに日本の小学校に通い始めたのだが、日本の学校では「みんな勉強ばっかりしている」と感じたという。米国の学校に比べると宿題が多いし、学校の授業が終わってからも塾に通っている子が少なくなかった。

しばらくすると、日本の子供社会に妙な協調性があることに気が付き、違和感を持ったという。クラスでなにかを決めるときでも、たいていみんながひとつの意見にまとまってしまう。そんな環境で、個性と自己主張が強い帰国子女の高橋 さんは、自然と浮いた存在になってしまった。

転校生というだけで仲間はずれにされるリスクが高いのが、日本の小学校である。海外育ちで、英語風のアクセントで日本語を話す高橋 さんは、かっこうのいじめの対象になってしまった。近所の子供達と遊んでいるときも「美緒ちゃんの話し方は変だよ」とからかわれる。もちろん、仲のいい友達もいて、かばってくれることもあったが、均質な日本人だけの小学校で、異質な存在を受け入れてもらうのは難しかったようだ。

帰国子女をけむたがる英語教師

中学に入学すると、英語の授業が始まった。高橋 さんには、当然ながら英語は「楽勝」だった。それが面白くなかったのだろうか。いじわるな(?)英語の先生がいて、「おまえが英語ができるのは当たり前だ」と決めつけ、テストでいくら満点をとっても、5段階評価で3しかくれなかったという。少し妙な話だが、「おれは努力をした生徒を評価する」と言い張る先生にも、それなりのメンツや理屈があったのだろう。クラス一の優等生の池田くん(仮称)も、高橋 さんのことを毛嫌いしていたという。たいして勉強をしている様子もないのに、いつも自分より英語ができる帰国子女の存在がおもしろくなかったのだろうか。

勉強そのものは嫌いだった。国語や数学で苦労していたため、成績は真ん中よりも少し上くらいだったという。中学でも学校生活に息苦しさを感じ、なんとなく馴染めないと思うことがあった。美術部や広報部のクラブ活動が良い想い出だという。

県立高校に進学。一転して、高校生活は充実していて楽しい日々だったという。中学まで時々あった陰湿ないじめはすっかりなくなり、心を許せる友達も増えた。ようやく日本での学校生活になじめるようになったのだ。英語は相変わらず得意科目だったが、ときどき自分よりも良い成績をとる同級生がいたという。その同級生は海外生活の経験のない普通の日本人である。

「彼女は相当な努力をしていたはずなんです。素直に、すごいなぁと思いました」

英語に関して慢心しがちな自分を戒めてくれる貴重な存在だったようだ。

高校3年に進級して進学を考える時期になった。ソ連が崩壊したばかりの頃である。英語のできる人はいくらでもいるので、ロシアという大国の言語に目を付けた。
「ロシアは大国だからきっとロシア語の需要が増えるだろう。ロシア語を勉強する人はあまりいないから、競争相手が少なくて将来有利だと思ったんです」

志望校は、都内にある国立大学で語学の専門教育が受けられるところという条件で、とりあえず、東京外国語大学を選んだ。といっても、当時の成績はとても東京外大に入学できるようなレベルではなかったという。高3の夏頃から本格的に受験勉強を始めたところ、ぐんぐんと成績が伸び、現役で東京外国語大学ロシア語学科に合格した。もともと頭は良かったのだ。

東京での大学生活

大学では仲のいい友人と2人で、映画ばかりを観ていたという。自然に映像翻訳の世界に興味を持つようになり、戸田奈津子氏や林完治氏があこがれの字幕翻訳家だった。

「友達と2人で洋画を観て、あの訳し方はうまいとか、字幕翻訳の話で盛り上がったんです」

あるとき、教授の紹介で英日翻訳のアルバイトをさせてもらうことになった。民間企業の依頼でマーケティング資料や人材研修用の英文テキストの英日翻訳を友人と2人で請け負い、友達の家に泊まり込んでやっていたという。最初の仕事の評判が比較的良くて、その後もリピートオーダーが来るようになった。

「1回の仕事で30万円くらいの報酬をいただいたこともあるんです。学生には信じられないくらい条件のいいバイトでした」

翻訳で稼いだお金で海外旅行に行ったこともあるという。産業翻訳という職業があることを知ったのもこのバイト経験からだった。

さて、肝心の学業である。実状をよく知らずにロシア語を選んだのだが、複雑な文法がマスターできなくて、早々に行き詰まってしまった。結局、途中で専攻を変えて何とか乗り切ったという。

大学卒業後の進路としては、漠然と映像翻訳の勉強をしたいと思うようになっていた。専門の勉強ができる東北新社系列の学校があることを自分で調べて、そこに進学できないかと考えていたが、これ以上親の仕送りをあてにすることもできないので、いったん就職することにした。

4年間の大学生活を通して自分のニッチはロシア語ではなくて英語であることを悟った高橋 さんは、英語力を活かせる仕事を探すことにした。

英語を使う仕事

最近の大学生はインターネットで就職先の情報を収集するのが当たり前だという。「英語を使う仕事」をキーワードにして調べていたら、アイウエオ順に該当職種を募集する企業が表示され、一番上にあったのが自動車部品メーカーの「ア○イ○ン精機」だった。

偶然にも、刈谷の実家から通えるところにある会社だ。とりあえず面接に行ったら即内定となった。

「会社の方でも英語のできる人材を求めていたらしいんです」

帰国子女で東京外大卒、自宅通勤可能という条件がアピールしたのかもしれない。入社後、配属されたのがミシンの商品企画部門だった。漠然と自動車部品の海外営業を夢見ていたというが、希望と異なる部署に行くことになったので少しばかりがっかりしたという。たまたま同じ部署内に、英語のできる人がいなかったため、必然的に高橋 さんは英語屋さんになってしまった。

「海外から電話がかかってくるたびに、私のところにまわされたり、海外から来客があると世話係をやらされたり…」

とにかく、英語というだけで規格書、クレーム処理、契約書からありとあらゆるものを翻訳させられ、ときには通訳や接待までやらされる。もちろん、本来の担当業務であるミシンの商品企画が免除されるわけではなく、一人前にこなさなければならない。定時に帰宅できることはほとんどなく、極端に残業の多い職場だったという。

そんな厳しい環境でも、人一倍負けん気が強いという高橋 さんは、弱音を吐かずにいい仕事をしようとがんばった。ミシンの想定購買層と年齢が重なる同年代の友人の意見を商品企画に反映させようと思い、独自にマーケットリサーチを実施したこともあるという。だが、いくらがんばっても、若い女性社員の独創的な意見や提案を取り上げてもらえる余地がなかった。そんなことが度々あって、会社の保守的な年功序列体質に限界を感じるようになっていく。

会社の仕事が生活の中心になってしまったが、夢を忘れたわけではなく、出版翻訳の通信教育を細々と続けていた。

突然の結婚

多忙で充実した日々を送っていたが、入社3年目にして予期しない妊娠が判明し、急遽、同期入社のボーイフレンドと結婚することになった。出産直前まで勤めを続けるつもりだったが、その後は、いよいよ自分のキャリアをどうするかの決断を迫られることになる。産休・育休をとって子育てが一段落してから職場に復帰する選択肢もあった。だが、熟考の末、いったん会社を辞めることにしたという。

「在職中も出版翻訳の通信教育を受講していたんです。でも、忙しすぎて、じっくり勉強する時間もなかった。とにかく自分の時間が欲しかったんです」高橋 さんが通う翻訳学校

実は今回の取材では、知人の高田祐樹が講師をしている某産業翻訳講座の受講生を紹介してもらった。それが高橋 さんなのだが、彼女の本当の夢は映像翻訳に携わることだという。

「大学時代の同級生が有名な映像翻訳者のところで映像翻訳関係の仕事についているんです。在学中から通訳養成学校に通っていて今はプロになって活躍している友人もいます。私も頑張らなくちゃという気持ちになるんです…」

彼女を久々の有望株だといって絶賛していた高田の奴、こんな本音を聞いたらがっかりするだろうに…。内緒にしておいてやろうか…。

取材中も、高橋 さんは常に筆者の目を見据えて話をする。同年代の平均的な日本女性とは明らかに受け答えが違っていて、内面にある意思の強さや自信が感じ取れる(もっとも、筆者に若い女性の知り合いがたくさんいるわけではないが…)。たしかに、頭はいいし、高田がいうとおり、翻訳者として高い適性を持っているように感じられた。

だが、そもそも映像翻訳志望のはずなのに、出版翻訳の通信教育を受講し、その後、通訳の公開講座に参加して、現在は産業翻訳の講座を受講しているという。プロの翻訳者からみれば、なんともチグハグなやり方であるが、彼女にすれば「英語の仕事」というキーワードですべてが結びついているのだろう。

まだ若いせいか、夢と現実の折り合いがついていないような印象も受ける。だが、「英語の仕事」がしたくて翻訳学校に通う若い女性とは、きっとそういうものなのだろう。そして、そんな若い女性の夢を実現する(あるいは、現実との接点を見つける)手助けをしてあげるのが翻訳学校の役割なのだろうか…。

(取材・文 加藤隆太郎)ukei

※ご意見・ご感想を編集部宛にお寄せいただければ幸いです。

※この記事のオリジナルは、日外アソシエーツ発行の読んで得する翻訳情報メールマガジン『トランレーダードットネット』に掲載されたものです。お問い合わせはこちらまで

[ 戻る ]

Lifestyle ukei since 12/21/2000