翻訳者のライフスタイル研究(6) 脱会社人間、自己の可能性に挑戦

バッカイテクノドキュメンツ 井口 耕二さん

【 前編はこちち 】

ただし、条件として、大学院の入学資格は自分で取らなければならなかった。通常、会社から大学院に留学させてもらう場合、準備期間として語学研修の機会を与えてもらえるのだが、井口さんの場合、新入社員ということもあり、自力で挑戦することになったという。

米国の大学院に入学するには、文系でTOEFL600点以上、理系ではTOEFL550点以上が入学の要件になる。翻訳フォーラムのマネージャー

夏頃、同期入社の数人で力試しにTOEICを受験していたのだが、スコアは650くらいだったという。TOEFLに換算するとやっと500点を超えるくらいだろうか。

大学受験で使っていた参考書を見直してみたら、「基本的な文法もわすれていたんですね」

当時、井口さんは研究所に併設の寮に住んでいたのだが、研究所は木更津市(千葉県)から車で30分くらいの僻地にあったし仕事が忙しかったので、夜間に英語の学校に通うということもできなかった。

秋から一生懸命勉強を始めて、通勤時間を利用してFENを聞いたり、帰宅後に参考書をめくったりして努力を続けた。

「2月に受けたら553点。ギリギリだったんですね(笑)」

かろうじて入学要件をクリアしたわけだ。春に別件で米国出張した際に、現地の情報を収集し、帰国後、会社と相談した結果、オハイオ州立大学が留学先となった。井口さんが大学で研究していた装置の研究者がいたのだ。

講師の声が聞き取れない

入社2年目の9月、渡米して留学生生活を開始する。

米国の大学院で最初扱う分野というのは、井口さんが東大の学部でやっていた範囲だった。技術レベルとしては難しくはないのだが、なにしろ英語の講義である。

「意識を集中し、耳をとぎ澄ませて聞いていれば、講師の言っていることがなんとなくわかるんですよ」

ところが、板書をノートに書き写したりして、注意を逸らすと途端に話の内容が聞き取れなくなる。言葉として聞いていたものが、意味のないただの音になってしまう。

「それで、話を聞いて理解するのはあきらめて、板書されたものをノートに書き写すというやり方に切り替えたんですね。」

「すると、少なくとも何をやったかという記録が残るんです。教科書のどこをやったのかがわかるんです」

一日の授業が終わってから、あらためてその日に講義があったと思われる箇所を独習していた。

20単位! 超タフな留学生活

フルタイムの留学生として認められるには12単位取得する必要があるというガイダンスを受けた。12単位取れない場合は、強制送還の可能性もあるという。しかも、留学生は"additional"で英語ライティングのクラスを受講しなければならないというのだが、井口さんはこれを「追加で英語のクラスを」と理解した。そこで、井口さんは、1クラスはドロップアウトしても大丈夫なように、最低限の12単位に予備の3単位を加え、15単位+英語クラスというカリキュラムを組んだ。

(実は、英語のクラスを含め、合計12単位履修すればよかったのだ)

英語のクラスのプレースメント・テストでは、答案の書き方がよくわからなくてひどい出来だった。一番下のクラスに配属されたのだが、そのクラスは5単位で、毎日授業があるという。都合、20単位分を受講する計算になる。

米国の大学では凄まじい量の宿題が出るのは有名な話だ。ただでさえ大変なのに、井口さんはどういうわけか普通の学生の倍近い20単位分も受講することになった。

留学当初、英語漬けの生活に慣れていない頃は、一日中英語の講義を聴いていると頭が疲れ切って、ひどい頭痛がしたという。その状態で、

「夜は2時くらいまで勉強し、睡眠時間は4時間だけ。朝6時に起床してまた勉強です」

一日の講義が終わって、留学生の友人に話しかけると、「頭が痛いから話しかけないで」と言われる。英語に疲れた「頭にヒビク」というのだ。

土日も机にかじりついて、なんとか同級生の倍近い量の宿題をこなしていた。

「英語ができるようになるのが先か、ノイローゼになるのが先か、どっちかだろうなという状態でした(笑)」

過酷な環境におかれた井口さんは、3ヶ月間(1クォーター)をがんばり抜き、なんとか20単位を取得することができた。

あるとき、親しくなった米国人の友人と会話をしていると、話題が単位のことに及んだ。井口さんは何単位とっているのかと訊かれたので、Twenty と答えた。すると、Twelve の間違いではないかという。いや、間違いなく Twenty だというと、友人は大笑いを始めた。

「アメリカ人の自分が12単位でも大変なのに、どうして留学生のおまえが20単位もとっているんだと不思議がられたんですよ。会社と20単位取得するという契約でもしているのか、とからかわれましてね(笑)」

学科が中心の大学院1年目に、単位を取るか、つぶれるかという状況でがんばり抜いたかいがあったのだろう。短期間のうちに英語力は見違えるように躍進したという。

「1年経った頃には、英文を読みながら、英語の話を聞き取って理解できるようになっていたんですね」

日本人の学生がほとんどいない学校だったので、日本語を使うこともなく、日本人のコミュニティに出入りもせず、英語だけの生活をやり通した。TIMEとBusiness Weekは購読して毎号かかさず読んでいたという。

米国にわたった当初、英文を理解して読むスピードをTIMEで計ってみたことがあるのだが、1分間に4、50ワード程度だったという。米国人の平均的な話のスピードが分速100〜150ワードくらいになる。留学生活を終える頃には、読むスピードが270ワードに達するようになっていた。

「読むスピードが200ワードを超えた辺りから、聞き取りも楽にできるようになりましたね」

もちろん、化学工学の研究が目的で渡米したのだが、無事に修士号を取得し、日本に帰国する頃には、英語力についても留学前とは比較にならないほど向上していた。人生というスケールで見ると、英語を母語とする人たちの論理展開に触れたことが一番の収穫だったという。

研究者としての自分に

帰国後、会社の研究室に戻った井口さんは、国内留学をしていた同僚社員とともに、さっそく研究活動を再開した。ようやく"学生"を卒業し、しばらくは充実した日々を過ごす。ところが、研究活動を続けていると、徐々に、ある感情が芽生えてきた。

「どうも、自分は研究には向いてないなと感じるようになってきたんですね」

研究生活には満足していて、好きなことをやっているという実感もあるのだが、自分が、研究者として会社から期待されている業績をあげられないという現実に気が付き始めたのだ。自分は研究者に向かない、言い換えれば、研究者としての能力がないと考えるようになっていったという。

「同僚の中に一人優秀な研究者がいて、着実に成果をあげているんです。その同僚の仕事ぶりをみていると自分との差をいやでも感じるんですね」

井口さんはこのように言うが、社費での海外留学に抜擢されるくらいだから、平均よりも能力が劣っていたとは筆者には思えない。職業研究者として掲げていた目標や理想が高すぎたのだろうか。あるいは社会人としてのスタートで必要以上に気負いすぎたのではないだろうか。凡庸な筆者が、当時の井口さんの心境を正確に描写するのは難しい…。

そんな井口さんの心中を上司も察していたのだろうか、通産省(当時)の外郭団体NEDO(新エネルギー・産業技術総合開発機構)に、しばらく出向しないかという話がきた。

NEDOというのは、国の予算でエネルギー関連の研究開発を推進・支援する団体である。

「会社という組織の一員として、研究者として業績のあがらない人間は、機会があれば研究所を離れて他の部署に活躍の場を求めた方が、組織にとっても本人にとってもいいのではないかと思っていたんです」

断る理由もないので、すぐに承諾し、NEDOの石炭技術開発室(のちにクリーン・コール・テクノロジー・センターとなる)に出向することになった。

NEDOの3年間

NEDOでの仕事は面白かったと井口さんはいう。技術者としての井口さんの専門知識を、室長も通産のキャリア組も頼ってくれる。物事を決定するときにも井口さんの意志が強く反映されることが多かったという。

APECの一部として、石炭関係の問題を扱う部会があり、その日本側事務局の立ち上げを井口さんが取り仕切ることになったこともある。代表者は通産のキャリアなのだが、補佐役の井口さんが実際には実務をこなしていた。諸外国の担当者との折衝には井口さんの英語力が存分に発揮されたという。ワーキンググループでは、2日間の討議でレポートをまとめて、上位グループに提出するのだが、事前に井口さんのような事務方が草案をまとめる。

井口さんがAPECの担当を離れることになったときには、各国から井口さんを外さないでくれという嘆願が寄せられたという。

「好き放題に仕事をやらせてもらった」と井口さんは当時を振り返る。NEDOでは井口さんの仕事ぶりが高い評価を受けた。当初は2年という約束だったのだが、NEDO側から請われてもう1年出向を延長することになった。

井口さんはNEDOという組織で、仕事にも自信を持ち、自身の存在価値を強く実感できるようになった。だが、全く不満がないわけでもなかった。

「トイレに行く時間さえも惜しいと思ってしまうような激務だったんです」

朝は、9時45分頃に出勤すればいいのだが、夜の9時過ぎまで働くのが普通で、ひどいときには2週間連続で終電に間に合わず、タクシーで帰宅したこともあった。

「夕方7時頃、通産から電話がかかってきて、翌朝までに資料を作成しておくように指示されるようなこともよくあったんです」

つまり、井口さんが夜中までNEDOに残って仕上げることになる。

スケートで体を鍛えた井口さんは、健康には自信を持っていたが、NEDOにいた3年間で健康診断の数値がすっかり悪化してしまったという。

出向期間が過ぎた後も、移籍してNEDOの職員にならないかという声がNEDO側からかかったのだが、さすがに、健康を害するおそれのある激務を長期間続ける気にはならず、辞退した。

ビジネス畑に転向

NEDOでの実績は、社内でも高い評価を受けた。会社に戻るときには、井口さんの希望しだいでどこでも好きな部署に配属させてもらえることになったという。

入社当時、井口さんの採用を決めてくれた研究室長は、このとき、次長になっていた。

次長は「研究室に戻りたいか」ときく。

井口さん「研究は好きですけど、向き不向きがあると思うんですよね…」

次長「おれもそう思う(微笑)」

入社以来ずっと井口さんの上司だった次長には、すべてわかっていたようだ。ビジネスに興味を持つようになっていた井口さんは、新エネルギー部門の資源課・石炭輸入担当に転属させてもらった。

「希望した職種だったので、それなりにおもしろかった」と井口さんは言う。しかし、しがらみの多いビジネスのやり方がどうも肌に合わないと思うこともあった。

エネルギー関連の企業は、安定供給という社会的に重要な使命を担っていることもあり、非常に保守的な面がある。商売のやり方にしても、過去の実績や信用がまず第一で、値段は高いけど品質がいいとか、新しくて実績はないのだがおもしろいという性質のものがなかなか受け入れられない。流通ルートはきわめて硬直化していた。

「もともと、口銭(こうせん)商売の世界なんです」

ほとんど利益がでておらず、井口さんから見て継続する意味がないと思えるような取引でも、昔からのつき合いがあるから止められないと言われる。

「たとえば、社員のワイシャツなんですが、ほとんど全員が無地の白でした」

色柄もののシャツを着ている社員がほとんどおらず、そのような服装にも組織の保守的な体質があらわれているように感じたという。

結婚

話は少し遡るが、NEDOに出向する直前に、父親が末期ガンにかかっていることがわかり、入院してしまう。病状は深刻で残された時間は短かった。父親の故郷である九州のホスピスに移り、ターミナルケアを受けることになった。

当時、井口さんは、学生時代にスケート部の後輩だった女性と交際していた。東大スケート部の後輩だった奥様と

「大学の後輩といっても、卒業は一緒だったんですけどね…」

それぞれ自分のキャリアを持っていた二人は、それまで結婚ばなしを口にしたことはなかったのだが、闘病生活を続ける父を勇気づけ、密度の濃い余生を過ごしてもらうために、父の目前で結婚式をあげようということになった。井口さんが32才のときのことである。

とはいうものの、すぐに準備ができるはずはないのだが、医者からは急ぐようにせかされる。職場や友人関係にも事前に結婚の告知をするゆとりもなかったという。
ホスピス内にある教会で挙式。父親には式の終わりまで出席してもらうことができた。若い頃、父親に心配をかけたという思いがある井口さんにとって、父親に対する最後の親孝行になった。

しばらくは、地方公務員をしている奥様の職場と、井口さんの勤務先の研究所が遠く離れていたため、週末だけ会う通い婚状態だったという。NEDOへの出向が始まり、NEDOの近くにある社宅に二人が引っ越して新婚生活を始めた。

翻訳の品質にクレームをつけたら

実は、NEDO在職中にときどき翻訳を外注していたのだが、納品された訳文のあまりにもお粗末な品質に唖然としたことがあった。

「翻訳以前の問題で、誤字脱字が常識では考えられないほど多くて…」

翻訳業者の営業担当者を呼びつけて叱りとばしたという。そのときの啖呵がこうである。

「これだったら、自分でやった方がましだよ」

営業担当に言葉尻を取られたのだろうか、それほど自信があるなら、あなたが翻訳をやってみませんかと言い返されてしまう。そうなると、後には引けない。

自分の専門に近い部分で、ごく少量の案件だけを引き受けるようになったという。

「ただ英語ができれば、翻訳できるというものではないことは、わかっていたつもりなんですが、実際自分でやってみると随分と苦労しました」

NEDO時代は多忙で、翻訳する時間をとることは困難だったが、出向期間を終えて社内に戻ってからは、通勤時間や昼休みを利用して、副業で翻訳をやっていたという。この二足の草鞋時代については、井口さんの本『実務翻訳を仕事にする』に詳しいので、読んでもらいたい。

  


自宅購入

京都にいた姉夫婦が東京に引っ越すことになり、それまで住んでいたマンションを売却して、東京で別のマンションを購入することになった。

「家を買うというのはどんなものなのか興味があったので、夫婦で見にいったんですね」

不動産の実勢価格をみてみると、想像していたほど高くないことがわかった。これなら買えるかもしれないと考えた井口夫妻は、夫婦でいくら現金を持っているか調べてみることにした。

実は、井口家では、井口さんの財布、奥様の財布、家計費と財布が3つあるのだ。毎月、家計分担金を自分の財布から供出するシステムである。そのため、夫婦とはいえ、相手が自分の財布にいくらもっているのかはわからないし、お互いの年収についてもよく知らないという。

「3つの財布を合わせてみたら、意外に現金があったんですね」

住宅購入費の頭金くらいにはなりそうな額があった。社内預金から30年の返済計画で限度額いっぱいに借り入れをし、足りない分は公的融資のローンを組んで、東京都内の小金井市に土地を購入、自宅を新築した。井口さんが35才の時である。

子供ができた

武蔵小金井の自宅から、立川に通勤していた奥様が、都内に転勤となった。通勤時間が大幅に増えた上に、転勤が決まった直後に奥様が妊娠していることが判明したのである。

1年間は奥様が育休をとれるが、問題はその後である。公立の保育園に入れるかどうかもわからないし、仮に入園できたとしても送迎を誰がやるのかという問題がある。

奥様は、地方公務員だが、カウンセラーという職種の性格上、突然の相談が舞い込んだりすると帰宅が遅くなることがある。一方の井口さんは、当時、中国からの輸入担当だったのだが、残業が少なくなく、事前に確実な帰宅時間を予測するのは難しい状況だった。

あやうく死にかける

奥様の妊娠がわかって少し経った頃、井口さんは、なんとなく腹部に違和感を覚えた。翌朝、目が覚めるとお腹が痛い。大事をとって、1日会社を休む。その翌日も腹痛が続いたが、会社を2日続けて休むわけにもいかないので、出勤することにした。ところが、様子がおかしいから医者に行けと奥様は強く主張する。会社が終わってから帰りに医者に寄ろうと井口さんは考えていたのだが、一緒に行くから、どうしても医者に行ってくれという。どうやら、井口さんの様子がおかしいことに奥様は気づいたらしい。

結局、奥様に付き添われて病院に行くことになった。診察を受けると、午後一番で、すぐに手術をすると医者はいう。

虫垂炎が悪化して腹膜炎をおこしていたのだ。普通は、激痛をともなうため、救急車で運ばれる人が多いという。井口さんの場合は、39度も熱があるのに、自覚症状がない。お腹から漏れ出た膿が血液に混ざり脳に回ったのだろうか、頭の働きが低下していて、受け答えがおかしかったという。奥様はそれに気が付いたのだ。すでに敗血症をおこしかけていて、一日遅れたら命がないという状態だった。

だが、本人はただの盲腸だと思いこんでいたという。麻酔をされて意識がなくなり、次に気が付いたときには、奥様がそばに付き添っていた。

「あれ、盲腸なのに、なんで全身麻酔なんかしたの?」

本人は手術後もとぼけていた。医師から説明を受けて、ようやく自分が生死の境を彷徨っていたことを知ったという。もし、その日会社に行っていたら、途中で倒れて意識を失い、そのまま還らぬ人になっていたかもしれない。

さすがの井口さんも、1ヶ月の入院期間中、病院のベッドで人生について色々と考えたという。

「人間、あした生きてられるかどうかも、わからないものなんだな…」

仕事熱心だけどアンチ会社人間

それまでの井口さんは、どちらかというと自分の生活を大切にするタイプなのだが、やはり仕事を最優先する日本型の組織人だったという。

「今頑張れば、将来きっといいことがあるさ。少なくとも退職後は、豊かな老後を送れるんだ」

自分にそう言い聞かせて頑張ってきた。

周囲には、いわゆる会社人間が多く、井口さんは、そのような会社だけの人生に対しては以前から疑問を持っていたし、それではダメだと周囲の人にも普段から説いていたのである。その考えが行動にも現れていた。必要があれば夜中まで会社に残って働くが、仕事がないときには5時半にさっさと退社してしまう社員だったという。

「アシスタントの女性がまだ残っているのに、お先に、と声をかけて帰っていくこともありました」

短期間で精算していける人生

石炭輸入の仕事はそれなりにおもしろかった。だが、会社や業界の保守的な体質に限界を感じることもあり、次第に、「費やした労力を短期間で精算して、頑張った自分にご褒美が返ってくるような人生を送りたい」と考えるようになっていったという。

自分という存在が欠けても、その穴を埋めて組織は何事もなかったかのように機能し続ける。それは分かった上で、自分にできる限りのことをしようとしてきた。その考えは変わらない。でも、緊急手術に失敗すれば、「将来」はなかったかもしれないのだ。

「今年頑張って、来年良いことがあるというのは、わかるんです」

「今頑張れば、30年後に報われると言われると、理屈では理解できても実感に乏しいし、本当にそんな先に良いことがあるかどうかはわからないわけです。これから30年自分が生きているかどうかもわかりませんし…」

翻訳フォーラムとの出逢い

退院して自宅療養をしているとき、以前買っておいたモデムをパソコンに取り付けて、始めてNIFTY-serveに接続してみたという。どこかで翻訳フォーラムの存在を知り、興味を持っていたのだ。

その頃、副業でやっていた翻訳の仕事を面白いと思うようになっていたが、翻訳フォーラムに参加するようになってからは、ますます翻訳の魅力に引きつけられていったという。

「翻訳フォーラムに入るまでは、翻訳者という人種が周囲に誰もいなかったんです」

パソコン通信がおもしろくて、すっかりのめり込んでしまった。

「メンバーが集まって昼食を食べるオフ会があるというので、会社を半日で早退して参加したりとか…」

フォーラムへの投稿文を読んでいると、投稿者のレベルがある程度わかると井口さんはいう。メンバーが大勢集まる、年に一度の大きなオフ会(大オフ)に参加したとき、井口さんが普段から「この人はすごいな」と認めていた人達と直接話す機会があった。その人達も井口さんの能力を認めていたらしくて、口々にこう言う。

「サラリーマンなんか辞めて、翻訳専業になったらいいじゃない」

会社員と翻訳者が両立しなくなったら、翻訳をやめて会社員に専念することしか考えていなかった井口さんにとっては、コペルニクス的転回ともいえるアイデアである。しかし、一流の専業翻訳者の人達から見て自分はやっていけるレベルであるというなら、会社を辞めても食べていけるんじゃないか、と翻訳に自信を持つようになったという。

井口さんが、在宅の翻訳業に就いたとすれば、子供の保育問題も解決する。

冗談じゃない!

井口さんが、タイミングを見計らって、この新しい選択肢を奥様に相談してみたところ、奥様の第一声がこれだった。

「冗談じゃない」

突然、ものすごい剣幕で怒りだしたという。奥様は、夫が会社員という安定した職業を続けることを望んでいたのだろうか。仮に夫が転職するにしても、勤務先の社名が変わるだけで、まさか会社員という枠を飛び越えて、海の物とも山の物ともつかない自営の翻訳者になると言い出すとは思っていなかったのかもしれない。

その後1ヶ月以上かけ、いろいろなパターンを想定して話し合いを続けたところ、夫の井口さんが翻訳者になれば、全てがうまく収まるというシナリオを奥様も徐々に理解してくれるようになったという。

その頃、井口さんは副業翻訳の取引先の数を増やし始め、単価の値上げ交渉も試みるようになった。それまでは、一社だけで単価も先方の言い値で仕事を受けていたのだ。

「他の翻訳会社とも取り引きできるのか、高い単価でも仕事がもらえるのか、専業になってからのことを想定して検証を始めたんですね」

二足時代、翻訳の年間売り上げは平均で250万円くらいだった。これは、主に通勤電車の往復車中を仕事場とし、単価1300円/400字で一日10枚くらい翻訳した結果だという。

新しい翻訳会社とは単価をあげて2000円で登録したが、それでも順調に仕事の引き合いが来るようになった。

「本当にあなたが翻訳者になってうまくいくのかしら」と不安に思っていた奥様も、井口さんの副業での働きぶりを見ているうちに納得するようになったという。

会社員を続けた場合よりも実質的な収入は減るかもしれないが、食べていくのに困ることはないだろうし、奥様も自分のキャリアを犠牲にせずに済む。保育園への子供の送り迎えも二人で分担してやれるということで、家族会議の結果、最終的に夫婦の意志が固まった。

住宅ローンをどうする?

さて、井口さんの脱サラが決まったわけだが、会社から借りている社内預金をどう返済するかという問題が残る。当たり前のことだが、返してからでなければ、会社を辞めることはできない。現金で返せる額ではないので借り換えることになる。

「妻の説得に成功したと思ったら、今度は金の算段で苦労しましたよ(笑)」

なんとか金融機関のメドがつき、いよいよ独立計画を実行に移すことになった。まず、入社当時から世話になっている次長の自宅に夫婦で挨拶に行った。

「子供が産まれました。保育園に通わせることを考えると、夫婦のどちらかが組織勤めを辞める必要があると思うので、私が会社を退職することになりました」

わざわざ自宅にまで夫婦でやってきたからには、なにか重大な話があるのだろうと、次長もわかっていたらしい。

「そうか、大変だろうけど、頑張ってくれ」

その翌日、会社で直属の上司に辞意を伝えた。次の日、今度は部内の人事権を持つ総務部の課長に、社内預金の返済方法について訊ねられた。

「簡単に返済できる額ではないが、大丈夫か?」

井口さんにそこまでの準備ができていることを知った課長は、引き留めても無駄だと悟ったらしい。退職の手続きを進めてくれたという。

今度は、専務との面談となった。道具にこだわる人らしく、椅子にはアーロンチェアをチョイス

「納得できないが、理解はする」

他の選択肢はないのか、と一応慰留される。

「子供ができた後にも仕事を続けたいのなら、子供を産んだのが間違いではないのか」と専務はいう。

この暴言のような専務の考え方についても、井口さんは理解を示している。

「日本の企業社会では、家庭を顧みず、文字通り滅私奉公で勤め上げてようやく重役というポストに就けるのだと思うんです。専務の人生観は、私たちとはかなり違いますけど、私にも理解できますね」

通常の退職手続きは、ここまでなのだが、人事部が口をはさんできた。やはり、「理解はできるが、納得できない」というのである。本当の理由が他にあってそれを隠しているのではないかと詮索された。どうやら、人事部で、遠慮なく真実をぶちまけてくれという含みがあったらしい。

「全く不満が無かったわけではありませんが、会社を辞めたくなるような理由があったわけでもないんです。よその会社に移ったからといって、ここよりもいい職場だとは限らないと思います。会社に不満があって辞めるのではないんです」

今振り返っても、良い会社で良い職場だったと井口さんはいう。

会社に迷惑をかけないようにきちんと残務処理と引継ぎをし、1月20日付けで円満に退職した。

独立直後から仕事があふれる順調なスタート

さて、はれて独立した井口さんだが、会社の残務処理が忙しくて、独立のための準備がほとんどできなかった。

「最初は、古い食卓の上に小さなノートパソコンを広げて仕事をしていたんです。画面は小さいし、キーを叩くと机が揺れて…」

取引実績のある翻訳会社には、あらかじめ1月20日に会社を退職して、翻訳専業になることを連絡してあった。そのためか、1月中旬頃から引き合いが殺到し、退職翌日の21日から全く外出できないほど集中的に仕事が入ってきたという。以後も仕事の依頼がとぎれることはなかった。

「幸い、翻訳業のスタートは順調でした」

自宅には、家族全員が共有するという想定で書斎を造ってあった。そこに、スライド式の本棚を入れて、その上に本がいっぱい載っても良いようにと床を補強してもらったという。多様なジャンルの参考書があふれる本棚

そんな状態からスタートして徐々に必要なものを揃えていった。書斎で仕事を続けていたが、もともと仕事部屋として作ったわけではないので、仕事とは無関係な物もたくさん置いてある。

「これは近い将来パンクするなと思いましたね。この本も欲しい、あの本も欲しいし…」

とても自宅では仕事を続けられそうになかった。なにしろ、井口さんは翻訳の守備範囲が広く、扱う分野が多岐にわたる。そのため、様々な種類の本が必要になるのだ。その上、デスクやパソコンなど機材もどんどん増えていく。

二足時代はエネルギー関連専門だったが、自動車やエレクトロニクスへと仕事の幅を広げていく。クライアントから指名されたり、同業の翻訳者から仕事の紹介を受けたりするようにもなった。当初は翻訳会社4社との取引を中心にスケジュールが埋まっていったという。

個人事業から有限会社へ

「独立の動機のひとつとして、自分がどこまでできるのか試してみたいという気持ちがあるんです」

翻訳会社を経由せず、直接クライアントと取引したいと考えていた井口さんは、独立後わずか2ヶ月で有限会社の法人格を取得し、会社を起こした。それが、有限会社バッカイテクノドキュメンツである。有限会社をつくるには資本金として300万円が必要である。

「まだ、資金に余裕がない頃で、有限会社の設立資金に300万円出費したら、もう手元にはいくらも残っていない状況でした(笑)」

駅前の2DKを借りて事務所とし、仕事場を自宅から移した。法人化して事業を開始した直後は、知り合いを訪ねては名刺を配って営業した。徐々にエージェント経由の仕事が減ってゆき、現在では売り上げの95%をソースクライアントとの直接取引が占めているという。事業の法人化にも見事成功したわけだ。

新規の顧客は、紹介によるものが多いという。

「前の勤務先の紹介や、どこかで一緒に仕事をしたことがある人の紹介というケースが多いと思います」

翻訳フォーラムの知人から仕事をまわしてもらうこともあるし、逆に回してあげることもあるそうだ。

「独立後半年ぐらいで、翻訳者一人で有限会社を経営する、というやり方がうまくいくことはわかったんです」

井口さんの場合、自らのアイデンティティは翻訳者であり、経営者ではないという。

「事業を拡大して大きな翻訳会社にしようとは考えていないんです。もし、仮にそうなったとしたら、私にとってはきっと不幸だと思います」

井口さんにとっての理想型は、自分ひとりまたは4、5人のSOHO翻訳会社である。
「一人だったら嫌な仕事は断ることもできるじゃないですか。もし、社員を抱えてしまうとその人達の給料を払うために、やりたくないこともやらなければならないという状況が生まれるでしょう」

だが、一人だけでは面倒な雑用もこなさなければならない。少数でも社員がいれば、自分は翻訳に専念することができるかもしれない。

会社設立後2年目に、営業社員を一人採用した。

彼女がある翻訳会社で営業兼コーディネータをしていた頃に、井口さんが仕事を受けたことがある。コーディネータと翻訳者という間柄で仕事のやりとりを通して、井口さんは彼女が優秀な人材であると感じていたという。たまたま、勤めていた翻訳会社を辞めるという話を耳にして、井口さんが引き抜いたというわけだ。ただし、営業としては優秀だが、翻訳はできない人らしい。

「翻訳業界での営業経験のある即戦力が欲しかったので、彼女はピッタリでした」

井口さんは、経営者兼翻訳者の自分と営業担当の女性社員という体制で、高品質な翻訳を比較的高めの単価設定で提供するビジネスモデルがうまく機能するかどうか、見極めてみたいのだという。

井口さんの挑戦はつづく。


(取材・文 加藤隆太郎)井口

 

【前編】
◆ 駅前のSOHOオフィス
◆ 好きなことには熱中する少年
◆ スポーツと音楽奨励の家
◆ 1周だけの競争
◆ ご近所で本物の英語に
◆ クラブ活動で多忙な高校生活
◆ シーズン通して滑走できるリンクに通いたくて大学進学
◆ 翻訳者向きの東大気質
◆ 駒場での長〜い青春
◆ 工学部の厳しい現実
◆ やっと駒場を卒業
◆ 本郷で優秀な学生に大変身
◆ 就職
◆ 新入社員が海外留学

後編
◆ 講師の声が聞き取れない
◆ 20単位! 超タフな留学生活
◆ 研究者としての自分に
◆ NEDOの3年間(クリーン・コール・テクノロジー・センター)
◆ ビジネス畑に転向
◆ 結婚
◆ 翻訳の品質にクレームをつけたら
◆ 自宅購入
◆ 子供ができた!
◆ あやうく死にかける
◆ 仕事熱心だけどアンチ会社人間
◆ 短期間で精算していける人生
◆ 翻訳フォーラムとの出逢い
◆ 冗談じゃない!
◆ 住宅ローンをどうする?
◆ 独立直後から仕事があふれる順調なスタート
◆ 個人事業から有限会社へ

出版翻訳でも活躍する
井口耕二さんの訳書

※この記事のオリジナルは、日外アソシエーツ発行の読んで得する翻訳情報メールマガジン『トランレーダードットネット』に掲載されたものです。お問い合わせはこちらまで

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