翻訳者のライフスタイル研究(6) 脱会社人間、自己の可能性に挑戦

バッカイテクノドキュメンツ 井口 耕二さん

「理解はできるけど、どうも納得できないね…」というのが、井口さんが辞意を伝えたときの社内での反応だった。

栃木県下有数の進学校から現役で東京大学理科I類に進学し、エネルギー関係の企業に研究職として入社後、社費で米国大学院へ留学した経歴をもつキャリア社員が、突如として辞職を願い出たのである。21世紀産業翻訳業界のリーダーになる人だ
しかも、その理由が、

「子育てのために自分が会社を辞めることにした」

だったから、社内に大きな波紋が広がった。実は、本当の理由が別にあってそれを隠しているのではないかと詮索されたという。

駅前のSOHOオフィス

東京駅から中央線快速電車で40分、武蔵小金井の駅前に井口さんのオフィスがある。サラリーマン時代に購入した、小金井市内の自宅からこのオフィスに毎日通勤しているという。有限会社の看板を掲げて営業しているので肩書きは代表取締役だが、自分はあくまでも翻訳者であると井口さんは考えている。

井口さんは長い伝統のある翻訳者コミュニティ、翻訳フォーラムのマネージャー(運営責任者)としても知られ、著書には、フォーラムでの連載をまとめた業界参入ノウハウ解説書『実務翻訳を仕事にする』(宝島社新書)がある。

好きなことには熱中する少年

幼い頃は好奇心が強い子供だった。なんにでも首をつっこむのだが、

「自分が好きになったもの以外は、見向きもしなかったんですね」

ゴミ捨て場から廃品のモーターを拾ってきて、中に入っている磁石で遊んだり、木工に夢中になった時期もあった。新聞受けに始まり、椅子まで作ってしまったというから大した小学生である。小学校高学年になると、父親の影響で電子工作に夢中になり、真空管ラジオを作ったりした。

学校の勉強のようにきちんとやらなければならないものは苦手だったという。ただし、勉強しない割には成績の方は悪くなかった。先生からは「まじめにやれば、もっといい成績がとれるはずなのに」といつも言われている子供だった。勉強には「関心が向いてないから」やる気にならなかったという。

たとえば、理科とか算数とか主要科目でも好きなところは、「とことん掘り下げて」勉強するのだが、試験範囲をすべて網羅するように「穴を埋めて」いくような勉強のやり方ができなかったという。

スポーツと音楽奨励の家

井口さんのご両親は、スポーツや音楽が不得意であるばかりに人生の様々な場面で悔しい思いをすることがあったらしい。自然と、自分たちの子供には同じ思いをさせたくないと考えるようになった。特別に教育熱心というわけではなかったのだが、体育や音楽に関しては成績があがるとご褒美をくれたという。それで、姉は音楽を始めたが、弟の井口少年は音楽を習おうと思わなかった。

井口少年が小学校3年にあがるときに一家は栃木県に引っ越した。自宅から学校へ行く途中にスケート場があった。そこで、同級生と競争してみたら、井口少年がやっと半周したときにはすでに他の子達はゴールインしていた。一緒に遊べるという状態でなく、井口さんは自然と「おみそ(地方によっては『からこ』とも『とうふ』ともいう)」役になってしまったという。

負けず嫌いの井口少年は「とても悔しかったんですね」

それがきっかけとなり、日曜日の朝に開かれるスケート教室に通い始めた。スポーツ奨励の両親は子供がやりたいと言えば、無条件に費用を出してくれたのである。

ちなみに、学習塾やそろばん塾など「塾と言われるものに行ったことがない」と井口さんはいう。大学に進学するまで、塾・予備校の類には一度も足を運ばなかった。模擬試験ですら中学や高校の校内で実施されるもの以外は受験したことがなかったのだ。

井口少年はスピードスケートに夢中になっていた。あるとき、ショートトラックの大会で、数人が絡んで転倒する事故が起きた。ショートトラックというと氷上の格闘技とも呼ばれる激しい競技である。井口少年も足を引っかけられて転んでしまった。すっ飛んでいった先が運悪く保護マットのないところで、防御の姿勢をとることもできず、足を骨折する重症をおってしまう。

事故から数ヶ月後、リハビリを続けているときに、あるコーチからフィギュアへの転向を勧められた。だが、井口少年は、フィギュアと聞いただけで、絶対にやりたくないと思ったという。

「男だったらスピードかホッケーだと信じて疑わなかったんですよ。男がフィギュアなんて恥ずかしくて…」

その年頃の少年がそう思うのも無理はない。当時の男子フィギュアスケートというと日陰の存在で、人気のない地味な種目だったという。

「テレビで放映されるのは女子のシングルだけだったんです」

1周だけの競争

井口少年はどうしてもフィギュアに転向するのが嫌だった。一計を案じたコーチから提案があった。二人で競争しようというのだ。井口少年が勝ったら、そのままスピードスケートを続ける。もし勝てなかったら、そのときは潔くフィギュアスケートに転向する、という賭である。コーチは大人とはいえ、フィギュアの人である。スピードスケート選手の井口少年にも十分な勝算があるように思えたという。

よーいドンでスタートし、1周してゴールに飛び込むと、結果は同着だった。負けはしなかったが、勝ったわけでもない。

コーチは「おまえ、勝てなかったよな」とだけいう。

約束を文字通り解釈するとフィギュアに転向することになる。こうして、コーチは、井口少年の自尊心を満足させながら、巧みにフィギュアへ転向させることに成功した。このコーチは少年の心の機微に通じた大人だったらしい。

もともと食わず嫌いだったようで、やり始めてみるとフィギュアが意外におもしろい。その後、大学までずっと続けることになった。

父親が転勤族であったため、井口さんは現在にいたるまで都合17回も住所がかわったというが、井口さんが10代の間は、一家はずっと栃木住まいだったので、近所のスケートリンクに通い続けられた。子供の進学に対する配慮があったのかもしれない。

中学に入学する頃には、すっかりフィギュア・スケートに夢中になり、本格的に競技活動を始めていた。そうなると、オフシーズンのトレーニングも欠かせない。オフトレというと陸上トレーニングが普通だが、単調な陸トレはやりたくなかった。それで夏だけやるスポーツとして、同じシーズンスポーツで、しかも上手い具合にオフシーズンと競技期間が入れ替わる水泳をやることにした。

 ご近所で本物の英語に

中学にあがると英語の授業が始まる。ちょうどその頃、米国に長く滞在していた一家が近所に引っ越してきた。その帰国一家と家族ぐるみのおつき合いすることになり、帰国夫婦に井口少年と姉の二人は英語をみてもらえることになった。その替わりに、昔数学の先生をしていた井口さんの母が、先方のお子さんに数学を教えてあげていたという。

ご夫妻の指導のもと、たいていの中学生が最初に買う、カタカナで発音が示してあるような辞書を使ってはダメだということで、高校生が使用する中辞典を買い与えられた。その旺文社のエッセンシャルを大学卒業時まで使っていたという。

「英語を英語のまま理解しなさい」という、当時としては斬新な帰国夫妻の指導方針は井口少年にとっても、新鮮で興味深いものだったという。学校では、英語を一度日本語に置き換えてから理解するというやり方が当たり前だったからだ。何よりも、帰国夫妻が話す本場の英語には、学校の授業とは比べものにならないほど本物っぽくて魅力があった。

スケートは、すでに県大会で優勝を争うレベルだったという。

「といっても、男子のフィギュアには毎回出場者が2、3人しかいませんでしたら(笑)」

さらに、国体出場資格である3級を獲得するまでになっていた。オフトレの水泳についても、試合に出れば県大会で決勝に残れるくらいのレベルだったというから大したものである。

相変わらず、学校の勉強にはさほど関心をもたなかった。学校の定期試験での英語の成績は抜群というわけでもなく、全校で30〜40番くらいなのだが、出題範囲のない模擬試験では、5、6番に成績が跳ね上がったという。

「田舎の学校ですからね」と井口さんは謙遜するが、とにかくやれば、できる子だったようだ。

3年生の12月くらいから受験勉強に着手。社会(地理などのマル暗記系)と国語(古文・漢文)が特に弱かっため、いくらなんでも勉強せずに志望校の県立高校へ進学するのは無理だった。

クラブ活動で多忙な高校生活

無事に、栃木県で一番の進学校に進む。

さっそく、スケートと(オフトレの)水泳を再開し、アマチュア無線クラブにも入った。

高校1年の時に本屋で見つけて読んだ、松本亨氏の名著『英語で考える』には衝撃を受けたという。英語がますます好きになり、AFS (American Field Service) の交換留学生に応募してみた。

高校2年で選抜試験に合格すれば、高校3年の夏から1年間、自己負担費用なしで留学できる制度である。もちろん、選抜基準は厳しく、栃木県での枠は2名だけだった。

試験終了後、同じ高校から受験した3人が喫茶店で意気投合する。

「英語の話で盛り上がっちゃったんですよね」井口さんのデスクまわりは機材が合理的に配置されている

一緒に英語を勉強しようということで、英語のクラブ活動を立ち上げることになった。学校で調べてみると、すでに英語部というものが存在していて顧問の先生もいることがわかったのだが、何年も部員がいなくて休部状態だったらしい。その英語部を復活させることにした。噂を聞きつけた友人がメンバーに加わり、総勢5名となった英語部は、週末ごとに活動するようになったという。

井口さんは、早朝と夕方はスケート(オフシーズンは水泳)の練習、昼休みは無線クラブ、週末の土曜日は英語部の例会と多忙な高校生活を送ることになる。
進学校だから勉強もさぞかし大変だったのではないかと訊いてみたが、

「好きなことは、いくら勉強しても負担にならなかったんですね」

物理、化学、数学、英語といった好きな科目は、興味本位で自主的に勉強していたので成績も良かったという。

水泳では、さすがに高校レベルとなるとオフトレ選手では歯が立たず、県大会で予選3位以内(決勝出場者を除いて、その次点の人から1位〜という順位をつける)に入って名前をアナウンスしてもらえる程度(要するに、県で10番目くらい)だったという。

昼休みの趣味であるアマチュア無線では電話級の免許をとって楽しんでいた。

やはり、一番打ち込んだのはスケートだった。高校2年で6級となり、インターハイはもちろん、国体(国民体育大会)に出場して13番目くらいの成績をあげるまでになっていた。

「国体といっても全部で20人くらいしか出場していませんからね。大したことはないんですよ」

とまたもや謙遜するが、国体に出場するスポーツ選手というのは、我々一般人から見ればスポーツ界のエリートである。元国体選手の翻訳者と聞くと、なんだか超人的な能力の持ち主というイメージが湧くのは筆者だけだろうか。(実際、翻訳者になった井口さんは、1時間で最高1000ワードも翻訳できるというから、たしかに超人である)。

シーズン通して滑走できるリンクに通いたくて大学進学

栃木県のリンクは、1年のうち氷が張ってあるのは半年だけだった。残りの半年はオフシーズンになってしまう。

「半年しか滑れないというのは、1年中滑っている人の3分の1しか練習できないことになるんですよ」

シーズンが始まっても、最初の2ヶ月は前のシーズンの感覚を取り戻すだけで精一杯となる。そのため、実質4ヶ月しか練習期間がないのだ。

「ちょっと上手くなったかな、というところで、シーズンが終わっちゃうんですよね」

栃木県では、年間を通して使用できるリンクがなかった。それで、東京にあこがれるようになったという。東京には、年中滑走できるリンクがあったからだ。

「あの頃は、スケートがおもしろくてしようがなかったんですね」

さて、高校2年のスケートシーズンが終わると、いよいよ大学受験が待ち受けている。社会がダメ(興味がないから)で、物理・化学が好きだったこともあり、理系という選択はすでに決まっていた。

両親に相談すると、国立でも私立でも自分の行きたいところに行けば良いという理解のある返事が得られた。ただし、私立大の理系は学費がかかるので、私立に入学したら、スケートの費用までは出せない。スケートを続けたければ、国立へ入れというのである。

都内のスケートリンクに通える立地条件で国立大の理系学部というと、一期校(当時)では東大、東工大しかない。しかも、東工大には、前から憧れていたという。

「実は高校2年の終わり頃、成績を下げているんですよ」

2年生の間は思う存分スケートをし、3年生になったらスケートは中断して、受験勉強に専念すると決めていたという。2年の冬は、春に開催されるスケートの全日本ジュニア選手権に備えて集中的に練習していたため、勉強の時間がとれなかったのだ。

「春休み中は東京のリンクに泊まり込みで練習していたので、修学旅行にも行っていないんですよ」

スケートに熱中していたわずかな期間に、絶対的な自信のあった得意科目の数学で取り返しの付かないほど成績を下げてしまう。

「3年になって最初の校内模試で数学が200点満点のうち50点になってしまったんです」

それまで数学が得意科目だった井口さんは、全学年で20番以内という成績を維持していたのだが、いっきに70番くらいまでに落ちてしまった。やっと平均点というレベルである。

それから必死に受験勉強を開始したのだが、数学の成績がどうしても元に戻らず、あいからわず平均点付近をうろうろしていた。英語や理科がいくらよくできても、数学の配点が大きい東工大の入試では不利になる。そのため東工大はあきらめざるをえず、最後の選択肢として東大が残ったという。普通とは逆なのだが、井口さんの状況ではむしろ東大の方が入れる可能性が高かったというわけだ。

「数学でも翻訳でも同じだと思うのですが、油断して努力を怠ってしまうと、成績の低下などで表面に現れて自覚できるようになる以前から、すでに実力が堕ち始めているものなんですね。気が付いたときには取り返しがつかない状態になっているんです」

スベルために受験勉強をする人も珍しいが、必死に努力したかいがあって、試験直前1月の模擬試験で数学の成績が戻ってきたという。願書を東大に提出した井口さんは、現役で理科I類(工学部・理学部)に見事合格する。

翻訳者向きの東大気質

翻訳業界にはなぜか東大出身者が多い。たとえば、井口さんと同じ頃、エクストランスの河野弘毅さんが駒場に通っているし、農学部や教養学部で院生をしていた人が翻訳フォーラムのスタッフにいるという。

東大というのは翻訳に向いているのか、という筆者のぶしつけな質問に対して、井口さんは嫌な顔ひとつせず答えてくれた。

「東大に入る人は、受験勉強に真正面から取り組んでいるように、どこか生真面目なところがあるんでしょうね。そんな性格が翻訳にあっているのかもしれません」

「理屈っぽい人が多いし、わからないところをそのままにしておけないという意味で好奇心の強い人が多いんです。翻訳作業中になにか変だなと感じるところがあると、気になってしまってとことん調べ上げるようなところがあると思います」

駒場での長〜い青春

話を戻そう。

東大に入学し、駒場構内にある寮に入った井口さんは、当初の予定通り思う存分スケートに打ち込む生活を始めた。

東大にもフィギュアスケートのクラブがあったのでさっそく入部した。だが、さすがは東大である。部員は大学でスケートを始める初心者ばかりで、学業の妨げにならない程度にしか練習しないため、初級で終わる人がほとんどだった。後輩を指導してくれる先輩もおらず、まれに上手くなる人でも2級程度というレベルだったという。普通は大学で始めても4級くらいまではいくものらしい。ホームリンクは池袋で、池袋が閉まる夏場は品川まで練習しに出かけていった。

さて、東大の1、2年時は駒場で教養の科目ばかりを履修する。

「大学に入って、学校の勉強でおもしろいと思えるものがあまりなかったんですね」

スケートをしたいのを1年間我慢して、受験に集中的に取り組んだことによる反動もあったのだろう。どうも学業に身が入らなかった。

2年目の中頃に専攻振り分けがあるのだが、井口さんの成績では希望の学科に進むことができなかった。つまり、いわゆる留年が決まった。

もともと、スケートをしたくて進学したという大義名分のある井口さんは、自然と講義から足が遠のいてしまった。当然、成績は振るわない。次の年も本郷に進級できなかった。スケートの競技生活は熱心に続けていたが、勉強にはどうしても真正面から取り組めなかったらしい。

学業とは対照的に、スケートでは大学入学後にアイスダンスを始め、大学2年目に全日本選手権に出場している。4年目にはシングル7級の資格を取得し、全日本選手権の男子シングルに、4年目、6年目の2回、出場している。 4年目には全日本フリー選手権の男子シングルで9位と一桁入賞を果たし、全日本強化選手となったこともある。

もしかしたら、テレビ中継で井口さんの勇姿を見たことがあるかもしれないと筆者は気が付いた。

「たしかに、TV中継の用意がされている会場で試合をやってましたけど、自分のように順位が下の方の選手は放送されませんよ(笑)」と謙遜する。

筆者は井口さんの華麗な滑走シーンをどこかで見たことがあるような気がするのだが、ただのデジャブだろうか…。

工学部の厳しい現実

東大では、入学後の生存競争も厳しく、理科I類で3割くらいの学生が最低一度は留年を経験するという。東大に限らず、一般に工学部には留年者や中退者が多い。中には半数を超える数の学生が留年するという酷い私立大学もあるのだ。それにしても4回も進級に失敗するというのは珍しい(ある意味ではすごい)。そうなる前に、やめてしまう人が多いからだ。

「1年目は希望の学科に行けなかった人も、2年目からは自分の成績で確実に行けるところを選ぶようになるんです」

井口さんの場合、スケート選手が本業で、ついでに学生をやっていると突っ張っていれば、他人から見ても理屈は通るのだが、井口さん自身、「心の中では、さすがにこれはまずいよな」と感じていたという。

5年目のとき、同期入学の友人のひとりが大学に見切りをつけて退めていった。

とにかく教養科目の講義に全く興味が持てないため、ずるずると留年を重ねてしまう。好きだったはずの英語さえも、駒場では嫌いになったというから、かなりの重症である。

「シェークスピアの講義が特に面白くなかったことはよく覚えていますね(笑)」

留年を重ねていたため、さすがに両親からの仕送りが細くなってきた。アルバイトをしなければスケートを続けられなくなる。

井口さんの場合、学内の寮に住んでいたので、少なくとも学校から足が遠のくということはなかった。大学にはいつもいるのだが、授業にでないという妙な学生になっていた。そんな状況でも、好きなスケートができれば幸せだったので、だらだらと駒場生活を続けていたという。

駒場4年目の頃、転勤で両親が都内に引っ越してきた(本当は息子を監督するためだったのではなかろうか?)。井口さんも同居することになったので、とりあえず、生活の不安はなくなった。

この頃、どうしても学業に身が入らないので、スケートを教えて食べていく道も考え始めたという。

「現実にスケートを職業という視点で考えてみると、やっぱり、それはしたくないなぁ、と思い直したんですね」

5年目くらいになると、スケートについても、もしかしたら現実からの逃避行動になっているのではないかと自問自答するようになったという。アイスダンスの競技生活は、パートナーと練習のスケジュールを合わせなければならず、文字通り学業どころではなくなってしまうため、すでにやめていた。

井口さんは、この長い駒場時代について当時の状況を淡々と語ってくれたが、実際には悩み多き青春時代だったのではないだろうか。大学受験までがあまりに順調すぎる楽勝人生だったのかもしれない。大学生になって初めて人並みの挫折を体験したのだろうか。

「いつまでも駒場にいても仕方がない。いいかげん専門に進むべきだ」とせっぱ詰まった状況を自覚して、高望みせず、自分の持ち点で確実にいける可能性がある学科をリストアップしてみた。「底が抜けている」学科つまり希望者が定員に満たない学科に絞られるわけだが、その中に不人気ながらも、興味のもてそうなところが見つかった。

やっと駒場を卒業

応用化学系の学科は、化学工業という産業がすでに停滞期に入っていたため、いずれも不人気で、4学科のうちの3学科で定員割れしていたという。その中では、化学工学科に比較的興味がもてそうだったので選択したところ、6年目にしてなんとか専攻振り分けにパスすることができた。

こうして、駒場での長い浪人生活にピリオドを打った。

本郷で優秀な学生に大変身

「入れるところ」という現実的な選択肢で化学工学科に進んだのだが、やってみると予想外に面白かった。本郷では見違えるほど熱心に勉強に取り組むようになり、成績も優秀者の範疇に入るまでになる。あまりの変貌ぶりに、周囲の友人からは駒場時代をからかわれることがあったという。

「なんで、6年も駒場にいたの?」

実は、当時の東大では、駒場に在籍できる年限が4年、本郷でまた4年という規則になっていた。本来なら駒場に6年もいられるはずはないのだが、2年間は休学扱いにして試験直前に復学させるという大学側の温情処置により、放校処分を免れていたのだ。

「うちのクラスでは、僕と一緒に6年かかって本郷に進学した人がもう一人いました」

中には、本郷での2年分を前借りして駒場に8年間在籍するというウルトラCを使う学生もいたという。そんな話を聞いていると、なんだか筆者にも東大生が少しだけ親しみやすい存在に思えてきた。

とにかく、駒場の万年教養部生が、化学工学科どころか、他の人気学科に行っても優秀者として認められるようなできる学生に変身してしまったのである。周囲の同級生が驚くのも無理はない。少年時代からの、好きなことには夢中になるが興味を持てないと身が入らないという性格が、大学生になっても変わっていなかったようである。大型液晶モニターで2台のマシンを使い分けている

「試験の直前になると、私のノートのコピーが同級生の間で評判になって出回るようになったんですよ(笑)」

駒場時代はあんなに熱中していたスケートだが、本郷に進学すると同時に公式試合からは引退し、後輩を指導したり身内の試合に出たりするくらいになった。

就職

本郷で充実した学生生活を送り、卒業のメドをつけた井口さんは、就職を考える時期になった。すでに8年も大学に在籍していたので、さすがにこれ以上学生を続けるのは憚られたという。井口さんがいた学科では、学生の9割近くが大学院へ進学するのだそうだ。学部から就職する学生は少数派である

化学工学科からの就職先というと、石油、電力などのエネルギー関係の企業だが、概して業績が芳しくなく、研究職の人材採用を控える傾向にあった。代替エネルギーの研究をやりたいと考えていた井口さんにとっては厳しい状況である。ただでさえ年齢制限でふるい落とされる年(当時すでに26才)だったのだから。

就職を意識しだした頃、あるエネルギー関連企業の研究所を見学させてもらえることになった。研究所を訪問して、しばらく研究室長と雑談をしていると、とんとん拍子に話が進んでいって、翌日の役員面接への参加を促されてしまう。

「ちょっと見学してくるか」という軽い気持ちで来ていた井口さんは、「まだ、入社するかどうか決めていませんから」と正直に伝えたのだが、明日までにどうするか決めてこいと背中を押されてしまった。あとで分かったことだが、実は、このときすでに現場レベルで井口さんの採用内定が決まっていたのだ。

「室長と雑談したり、一緒に食事をしたりしたのが面接になっていたんですね」

翌日の役員面接では、井口さんがまだ入社するかどうかを決めていないという話が役員に伝わっていて、その点についても覚悟のほどをあらためて訊ねられた。面接の話題はやはり駒場の6年間に集中した。スケートに打ち込んだ話をすると納得してもらえたという。

内定が決まり、この会社に就職することになった。

 新入社員が海外留学

大学卒業後、井口さんはこの民族系エネルギー関連企業に入社し、新人研修を経て、7月から新燃料研究室に配属された。さっそく石炭関係の研究に精力的に励んでいたという。

9月になって、社費留学の話が舞い込んできた。

「研究室から誰か一人、海外に留学させようという意図だったらしいですね」

研究室では、これまで扱ってきた分野以外にさらに研究の対象を広げようという思惑があり、その候補にあがっていたのが、たまたま井口さんが本郷時代に研究していた装置だった。そのため、新入社員としては異例の大抜擢で、井口さんの海外留学が決まったのである。

つまり、将来を約束されるエリートコースに井口さんはのったことになる。駒場でのどん底時代を思えば、人生の挽回に成功したといってもいいだろう。

【 後編につづく 】

(取材・文 加藤隆太郎)井口さん

【前編】
◆ 駅前のSOHOオフィス
◆ 好きなことには熱中する少年
◆ スポーツと音楽奨励の家
◆ 1周だけの競争
◆ ご近所で本物の英語に
◆ クラブ活動で多忙な高校生活
◆ シーズン通して滑走できるリンクに通いたくて大学進学
◆ 翻訳者向きの東大気質
◆ 駒場での長〜い青春
◆ 工学部の厳しい現実
◆ やっと駒場を卒業
◆ 本郷で優秀な学生に大変身
◆ 就職
◆ 新入社員が海外留学

後編
◆ 講師の声が聞き取れない
◆ 20単位! 超タフな留学生活
◆ 研究者としての自分に
◆ NEDOの3年間(クリーン・コール・テクノロジー・センター)
◆ ビジネス畑に転向
◆ 結婚
◆ 翻訳の品質にクレームをつけたら
◆ 自宅購入
◆ 子供ができた!
◆ あやうく死にかける
◆ 仕事熱心だけどアンチ会社人間
◆ 短期間で精算していける人生
◆ 翻訳フォーラムとの出逢い
◆ 冗談じゃない!
◆ 住宅ローンをどうする?
◆ 独立直後から仕事があふれる順調なスタート
◆ 個人事業から有限会社へ

出版翻訳でも活躍する
井口耕二さんの訳書

※この記事のオリジナルは、日外アソシエーツ発行の読んで得する翻訳情報メールマガジン「トランレーダードットネット」に掲載されたものです。お問い合わせはこちらまで

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